町の本屋という物語

  • 2024.04.02
  • BLOG


僕は本は読む方だとは思うけど、本当の本好きはそんなレベルじゃない。
僕は「役に立つ」目的があるからと読むけど、本好きは理屈もなく心と体が求めるのだろう。
「定有」というのは知らなかったけどハイデガー的な「実存」を同じような意味らしい。
つまり人間の存在というのは人間以外の物や生物が存在するというのと根本的に違い、いろんな側面はある中で「主体的」に生きることが可能なのは人間だけだ。
そして「自分の読書の愉しみのために本を選ぶ、この行為は当然だが、とても個人的だし、主体的だと思う。というよりも今の世の中、主体的と言えるのは、ひょっとして読書という行為しか残されていないのかもしれない」
これは簡単に読み流してはいけない。つまり読書のみが人間を人間たらしめる、と?
「のみ」なのか?僕は読書と本質的に似た行為として広い意味での「描く」こと、つまり音楽を奏でたり、絵を描いたり、その他の表現者と、それを読み感じる側がいて、それが世界中の文化の中でもれなく行われてきた、という事実から、それらが読書同様人間に本質的な行為だと思っている。
でも「のみ」と書かれた理由が、音楽も芸術もそもそもの持っていた本質的な部分を失い、嗜好品的なものになってしまった一方、読書も嗜好品的になりつつもまだ本質的な部分が残っている、ということではないかとは思った。

次に「町の本屋」という部分については、僕も建築設計をしながら「町の建築家」と言われるような、もっと地域に根ざして、自らの町に建築家として責任を持てるような在り方が理想だと思ってきたこともあり、羨ましく思い、それが何故43年という長い期間続けられたかについて、興味深く読んだ。
ただそれは単に、本好き同士が地域で結びつく、と言って仕舞えばそれきりなのかもしれないけど、それがとても簡単ではない

僕らはせっかく「人間に生まれた」のだから「人間に生まれて良かった」と思って死んで行けるようにするためにはやはり「実存」について考え直すべきだと思うし、近代の時代の移り変わり以上に、今の時代はAIやらなんやら人間存在を不安定にする恐ろしい時代に直面している。
そんな時代に少しでも「人間に生まれて良かった」と思うためには「主体的」に本を選ぶところから始めるしかないのかもしれないし、でもそのためにはこの店主のような存在は求められないにしても、生身の人間同士のつながりの中で、読書に限らず、人間に本質的なものに触れてゆかなければいけないと思う。
「人間を楽しむ」ために「人間を知る」というのはもう30年前から思っていることだけど、たまにはこんな話を交わせる友が欲しいな、と思う。