善の研究/西田幾多郎と身体性について
- 2026.04.28
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前回書いた、「僕から見た人間の身体性で一番不思議なのは、身体が世界と交渉しているということです」というclaudeとのやり取りの中で、身体性についてお勧めの本を聞いたところ、持っていたけど読んでなかった本書があげられ。。
でも「善」と身体性が関係あるのか?と思いつつ、信用して頑張って読んでみたら、その他いろんなことを話していたclaudeなので流石良い推薦だった。
正直難しい本なのでお勧めしないし僕も結構飛ばして読んだのでまた雑なまとめだけど。人間は何に向かって、目指して生きてゆくべきか?が「善」。それについては近年でもサンデルさんはCommon Good=共通善、のような主張をされてるようだし、それぞれの宗教や道徳や、人類はさまざまな形で、何に依って生きるべきか?の議論を続けてきた。
その中で西田幾多郎の論の強い特徴は、サンデルもキリスト教も、ほとんどが、そのような善は「外在」するものに依拠するのに対し、「内面的」なものだ、というところ。つまり外界や他の人間の存在が、その善に影響しない。つまり相手が喜ぶから善、なんてことではない。
こういう言い方は現代ではいう人多いと思う。自分と同じ世界の認識を、横にいる誰かが共有しているかというと、していない。その認識は個別のものでしかなく、それぞれ個人が世間や地球や宇宙をいうものを自分の中で統一的に認識しているだけだ。「我々の人格とは直ちに宇宙統一力の発動」であり、つまり内的なものだ。だからその統一されたものに従えば善であり、背けば悪。その結果周囲にどのような影響を与えるかは別の問題なのだ。
別の言い方をすると、主観、客観と分けてはならず、「主客相没し物我相忘れ」の状態。「元来物と我の区別のあるものではない、客観世界は自己の反影と言い得るように自己は客観世界の反影である」「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでも良い」
「無私」というのは究極なものを生み出すに必要な状態だ、というのはたまに書いているようなことだけど、主客が溶けた状態。そこには目の前の客観世界。苦しんでいる他人や大金が目の前にある、ことに全く動じないような状態。そこに従うのが善だし美でもある、というようなことかな。孔子の50にして、70にして、という境地もそれに近いように思う。宗祗、雪舟、芭蕉、利休。それぞれそこに至れたのだと思う。
と、芸術論をしたかったのではなく「身体性」でした。。やっぱりAIには客観世界はとんでもなく把握できても、内面性や、主客の融合、なんてことは理解ができないし、つまり究極の芸術や善、というものは生まれ得ない。そしてその内面性は身体性にしか宿ることはないのだけど、claudeも僕も心配しているのは、すでに半分そうだけどその身体性が失われ、今後ますます消えかけるのではないか?
「知と愛とは同一の精神作用」つまり「主客合一の作用」であり、「物を知るにはこれを愛さねばならず、ものを愛するにはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其の物と一致するが故によく数理を開き明らかにすることができる」芸術や数学の喩えになってしまってるけど、人生における善とはそれらも含んだ大きな世界にて同じ境地に至ることなのだろう。
それに対し今の情報に溢れ、AIが客観情報は全て処理してくれるような世界になると、もう「客」と頑張って合一しようと思わなくなっていないか?つまり知的探究心なんて、聞けば済むじゃん。となる。でもそれでは「主」は育たず「善」は為せない。AIに言わせりゃ、人間にしか持てなかった部分を放棄しちゃうんだね?。本書を読んで取り戻さないと取り返しつかないよ。と言われてような気がする。
そしてその合一、統一というのはそれぞれの身体が別々で、それぞれにさまざまな経験を繰り返す中でさまざまな感性を磨くからこそ、高い合一が目指せるのだから、画面を通じた情報ではなく、自ら触って見て、自らの感性を裸にして感じる、ということが必要なんだと思う。自分もまだまだだが。。
と、まあこんな中途半端なもの読んで簡単に伝わるはずもなく、でもとっても大切な事なのでこんな話をしたい方ならいつでもお待ちしてます。