修行論/内田樹

  • 2026.10.12
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少し前に書いた、事務所スペースを改修して色々まだやっているところだけど、この半年くらい色々考える中で「身体性」そしてそのための「修行」というものについて考えたいと思っていたところもあり買っていた本。
そして昨日実は、先日竣工した家の夫妻のwedding partyに参加させていただき 山梨県北杜市までのバスの往復の中で読んでいた。
まずは本当に良いpartyだった。夫妻の人柄だと思う。そして会の間は夫妻を通じて知り合い僕の家にも何度か遊びにきてくれたW氏と気が合う?のでずっと話していたんだけど、夫妻とも共通して言えるのは「子供みたい」本当に良い意味で。でも中身は人並み以上にずっとある。

本書の中でも修行の先の姿として子供というか赤子のようであることが言われるそうだ。たとえば弓の達人は最初は怖い顔して上達するがその先になると、魔の抜けた顔になり、弓を持たずとも鳥を落とせるようになり、最後には弓を見ても、何の道具か分からなくなってしまった。という話があるそう。
内田さんの文章もとても濃密で面白いんだけど、僕なりの切り口で言えば、大人になるほどに、「意識」で考え、体を動かす習慣がついてしまうから、とっさの時にあるべき動きや判断ができなかったり、遅れてしまう。野生動物を見ればわかることで、恐ろしく俊敏に動かないと、食えないし、逃げられない。そして人間は「修行」の先にその動物が備えている動きに近づける。
そして「瞑想」というのはその自意識を受け流し続けることで自意識と向き合わないという修行。

少し面白かったのは、司馬遼太郎が描いた坂本龍馬などの武人について、ほとんどと言っていいほど修行をしたことが描かれず、いつの間にか「天才」になっている。内田さんは修行の先にしかそれは得られるはずがないと信じられているので不満そう。「修行とは、長期にわたる『意味の分からないルーティン』の反復のことだ」と書かれているけど、冒頭の話に戻れば「子供っぽさ」によってそういう修行が不要、とまでいかなくてもそこまでする必要もないことはあるのではないか?と思ったりした。

まあこれは僕のいつもの持論で内田さんは一切書いていないけど、やっぱり人間ってそういう意味で動物から「退化」した存在だ、というところから始めた方が良いように思う。
最近、身体の本来的な能力について、というと漠然としてわかりにくいけど、武道的なものや、日本人が本来やっていた「ナンバ」やそんなものを読んだり見たりしている。「丹田」なんてよく聞く言葉だけどなんか神秘性しか感じない人も多いだろう。でもあれはただ単に、身体の色んな意味での中心、重心であり、そこを意識することを通り過ぎて無意識に大切にできることが、ただ本来の動物的な姿であり、無駄に筋肉や頭脳に負担をかけずに最良の動きをすることにつながる、ということじゃないかと理解したりした。
宗教も同じだけど「意味の分からないルーティン」だったのは過去の時代には仕方ないにせよ、今の時代はそれのある種の「構造」が見えてきているのだからそこを意識することで、意識中心の自分、というものから少し逃れられるんじゃないかと思う。
子供っぽい偉人、って昔は沢山いたんじゃないかと思う。でも今は少なくとも有名な人の中にいないんじゃないかと思う。そしてAIの時代もっと減るのではと。

だから「意味の分からないルーティン」ではない形での今の時代の「修行」が必要だと思っているし、それは昔や内田さんが経験されたような「師」というのが半分「無効」であり、それぞれの個人が自分の「赤子」の部分に向き合うことで行う方良いのでは??と思っているし、自分はそうしていこうと思っている。

と、よく分からない話でした。