オープンハウス予定2021.8.7
(※7/29内部写真追加しました)浜松市中区の住宅。そろそろ仕上げに入り、8/7(土)にオープンハウスを予定していますので、ご興味ありましたらご連絡ください。
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駆け込まないで!
どうやら消費税も上がることになりそうですね。
良く報道などもされる「駆け込み需要」についてなのですが、僕は建設産業については駆け込まない方がいいんじゃないかと思っています。
確かに税率があがれば100万とか負担増にはなるはずなのですが、建設業界というのは、他のほとんどの産業と違って、定価なんて存在せず、作って在庫する事もできず、注文があってから土地や要望にあわせて職人たちが現場で手作りをするわけですし、急に仕事が沢山来ても、物理的に対応できないので、仕事が多い時期はバブル期のように工事費もどんどん上がるのですが、逆に仕事が無くなったら、遊んでいても生活できないですし、仕事がないよりは1割2割引いても仕事をしたい人は当然いるわけですから、工事費も下がりやすくなります。
つまりは、消費税の数%のアップよりも、恐らく駆け込み需要後に仕事が減ったときの値引きの方が大きいんじゃないかと、今までの経験上思いますし、その方が職人たちもじっくり仕事に取組めて良い仕上りになるかも?しれません。
恐らく営業も、消費税が上がる前に!と営業トークをしてくるんでしょうから、バタバタ中途半端なものをつくらないよう、お気をつけください。
と、時事ネタでした。
家普請ー結
これで最後です。
ちょっと結局難しいというか面倒くさい話をしてしまいましたが、家をつくるにあたって最良の選択ができるようになれば良いだけなのです。
僕の持論なのでたまに書いたり言ったりしてきましたが、人間というのは「選択」をせざるを得ない唯一の動物であり、普通動物は「個」として何か選んだり生き方を決めたり、そして後悔したりする事はないので、その選択を良い形にできなかったなら、人間に生まれず動物の方が幸せ(動物はそう考えないですが)と言えるし、そんなの悲しすぎますね。
だから人間に生まれてきたことを楽しむ、つまりはせっかく選択できるんだからよりよく考えてより良い選択をして、結果楽しい人生だったなあと思って死んでいく「べき」だと思っています。
でもそこにどんな選択肢があって、その選択をしたらどんなに楽しくて、でもそのために何をしなければならないのか?という情報がなければ選択もできませんし、その本当に欲しい情報が、国家産業側によって隠されて(極端に言えば北朝鮮)いるのに近いんじゃないかと思います。
僕らから見ればあの国民は残念だなって思うでしょ?で、僕たち住まう事の本当に良い選択肢を知っている僕たちからみれば、無批判に住宅を「買わされて」いる皆さんはそれに近いわけです。
でもそれを知っている僕たち専業設計事務所というのは小さな存在で広告やCMをする事もままならないし、無理してやったって、年間にそんなに沢山設計はできません。
でも、やっぱりせっかくの大きな選択(大金を使い一生を過ごす)は間違って欲しくないので、まずはそんなより良い選択肢があるんだよ、って事を身の回りのまずは「なんだか変だな」って思っている方からでも伝えて、そこで、大変でもそんな可能性があるなら頑張ろうって感じてもらって、是非ご自分で一番と思える選択をして欲しいと思います。
もちろん皆さん色々な価値観や感性があるし、他にも有能な設計者は以外と身近に(沢山はいなくても)いるので、僕はそんなに沢山できませんから、アドバイスくらいはいつでもします。
ついつい設計事務所からの視点で設計事務所に頼まなければダメだ、みたいな書き方をしてしまいましたが、書いた通りダメなところ(設計力もない)も沢山あるし、設計施工や工務店さんでも利益よりも仕事が好きで真面目に良いものをつくっている方もいるかと思います。
以上ですが、具体的には、クリエイティ部で何かやるよう??です??
家普請3−ミッション
起承転結で、転。つまり結が最後にある?かも。
僕ら建築をやっている人間は基本的には建築が好きで夢を持ってより良いものを目指しているはずなのに、なんでこんな悲しい状況なの?という事について。
「ミッション」もしくは「使命」が欠けているから。というのがざっくりした答え。
そのミッションというのは僕らの世界では有名な「用、強、美(ワクワクさせるという意味の解釈も)」という建築の要素をそれぞれにより良く満たすものをつくろうと努める事。当たり前と言えば当たり前。
そしてそれを満たす事は住まいや建築をつくるための「目的」であり、つくること自体は単なる「手段」でしか本来ないのですが、現状「つくる」事が目的になってしまっています。まあ世の中手段と目的がひっくり返ってしまっているものだらけですね(例えば国家は国民のためにあるはずが国家を存続させるために国民がある現状みたいな)
「つくる」ためには会社として「売る」事が不可欠なので、つまりは「売る」事が何よりも優先されるわけで、純粋な使命感など社内で振りかざしても嫌われてクビにされるのが落ち。そうやって建築を志した純粋な使命感は抹殺されてゆくわけです。あー恐い。
そして僕たち一部の(!)設計者がなんとか使命感を失わずにいられるのは、「売る」必要がないからです。そして「用、強、美」をより良く満たすためだけに尽力をすればよく、だから設計施工の大小の会社の中で設計をやっている方たちと違い、「売る」事なんか考えずに質の向上をのみを考えれば良い。だから圧倒的に設計力がある(はずですが、そうでない努力不足の方も沢山います)。
かく言う僕もまだまだ努力不足で、もっともっと力のある諸先輩が(浜松ではなく)いる事は重々承知の上です。
でも、使命感だけ保てたとしても、「用、強、美」が自動的に満たせるわけなどなく、またかなり時代の価値観に左右される、つまり何か使い易いとか何か美しく楽しいかとか、世の中の強度基準にただ従えば良いという事でないとか、、設計者の価値判断レベルをより向上してゆく普段の努力をしなければならないし、そのためには人間の「本質」を知る必要があるから、歴史や哲学や人間に関するさまざまな事を経験し、「感じ」なければいけないから、まあ一生修行のような気持ちでないといけないんだと思いますし、そんな積み重ねをすることで初めてつくる事ができる良い住宅というものもあるのですよね。
プロが自らに問いかけ続ければ良い内容でしたが、まあ一般の方にも少し知っておいてもらえたらと思い書きました。
家普請2
続きです(^^)
そしてどうすればそんな状況が変えられるのか?という事について。
例えば国家だったら為政者と国民がいて、それぞれに「国家」という継続性のあるものについてお互い努力したりたまに怠慢で責められたりしながら時々大きな変革を起こしたりします。そして衣食の世界だと何度も食べたり買ったりしながら、その間情報も仕入れながらある種の良い淘汰がなされています。が、住(建築全般ですが)の世界では「一回性」つまりそうそう経験できない一発勝負的な世界で消費者側(つまりつくる側)は結果が良かったのかどうかも分かりづらくまた後悔しても始まらないので後悔の声は(衣食に比べ圧倒的に)聞こえて来ないというのが特徴なんだと思います。ということは供給者側の「良心」がより重要になるはずなのですが、書きました通り、この世界には「良心」なんて甘ったれた概念はありません。笑
それがあるとすれば「つくる側」でない「専業」設計者だけなのですがそれも実は危うい存在なのです。。建築士という国家資格の中で設計をやっている人間が一部いて、その一部が「つくる側」から独立して良心を持ち「得る」という建築士全体から言うと少数派でしかないから、医師会が声を上げるようには業界に対して声を上げる事はできないのです。
僕もそれなりな経験の後にこの発言をしていますので、異論があればいつでも受けて立ちます!!
ハセクンハシゴトガアルカラソンナコトイエルンダヨーって言われる感じなんですが、確かに仕事が無くて生活できないのは困るにせよ、一生に一度の大切な選択をしようとしている施主にあるべき姿をごまかすなんてプロとは言えませんよね。
つまりは建築士とか大きな組織としての良心に期待しても「無理」だという事でして、じゃあどうするかというと、つまり全体をいきなり変えようとしても無理なのでゲリラ的に、もしくはオセロのようにちょっとずつ色を自分の色に変えていってそのうちいつか全部が自分の色になることを目指すしかないということ。つまりはまずは理解し合える所で強い理解を共有しそれを形にして、近くでそれを目にして共感した方がその色に染まり。。。という連鎖を期待するしかないと。
キーワードは「違和感」つまり大きな流れの中でお仕着せに感じられるものに何か嫌な感じを受ける感性をもっている方こそがまずオセロでい言うとひっくり返るんですね。でも周りは今は全部反対の色のままかも知れないしそれは勇気のいる事かもしれないし、だからこそ周りは簡単にひっくり返らないのかもしれない。でも僕らはそれを勇気づけることはできます。
というかそのために僕は自ら作らないと偉そうな事言っても説得力無いだろと思いました(^^)
まだ具体的でないのでまだ続くかも。笑
家普請
最近Facebookつながりで、日本ではすぐに価値のない中古住宅になってしまうのに今の家賃並みの返済で済むからと、安かろう悪かろう住宅に生涯賃金を安易に捧げてしまうのか?みたいな話を聞き、我らが<はままつクリエイティ部>で企画をしようと、とりあえず骨子を考える事になりまして、、頭の整理を兼ねてここに書きつらねます。
まず冷静に考えれば分かりますが、食事だってとりあえず目につくお店に入ってしまうより、情報を集めたり色々行ってみて初めて自分のお気に入りのお店が見つかるのと同様、もっと恐ろしく沢山の金額を使って、恐ろしい数の(本来はあるのです)選択肢の中から選んで家をつくり、結果満足するためには苦労が少ないわけがなく、目についた程度で選んだ結果はその程度で終るのだと思います。
今日も初めてお会いしたクライアントとお話していて、やはり我々に「敷居の高さ」を感じた(会ってみれば違う)とお聞きして改めて感じたのは、僕たちが普通なだけで、周りの業者たちが売らんがために敷居を下げているだけなのかな?つまりはこんな良い住宅を真面目につくろうとしたら敷居が高くて当たり前なんじゃないかな?と思いました。
ところで今は死語化してますがしばらく前まで家をつくることを普請と言い、その意味は(あまねく)請う(こう)という読みの通り、広く平等に奉仕(資金・労力・資金の提供)を願う事だそうで、地域に居る大工や様々な職人たちの協力のもとに、今のように工務店などに一括でお願いして出来てしまうようなものではなく、それぞれの職人たちに実費を直接支払うようなやり方だったので、今のような宣伝広告や営業費なんてものは一切かからなかったし、ハウスメーカーのような大きな会社なんてなかったわけです。つまり自動車が大きな会社でないと採算が合わないのとは逆に、大きな会社であるほどに下手な経費がかかり、売る事存在意義のような状況になってしまっているのだと思います。
ただ確かに大量生産をしてコストダウンや性能の向上が計られているのはある程度認めますがそれ以上に様々な経費がかかっているだけの話で、でも大きな会社が結局政治力も持ち、そのやり方が社会のベースをつくってしまってきて、小さな工務店も同じ価値観で売らなければ売れないという業界に変わってしまった、という事だと思います。
つまり、家族の幸福のためにつくられるべき住宅が、企業の存続のために売られていて、そのためには「食通」のような「住通」がいてもらっては売りにくいので判断力を持たせないように「思考停止」をさせて、組めるローンの中で、見慣れた住宅が建てられればそれがあなたの「ゴール」ですよと洗脳させられている、という事ですね。
その洗脳状況から抜け出す方法は、「売る側=つくる側」の理論に染まっていない「住む側」の理論、つまり本当に日々、そして一生楽しく暮らせる住宅というのが本当にあり、それはあなたにも可能なんですよ、という事を知る事しかなく、設計事務所にはそれが出来るのです。が「出来る」と書いたのは中には「つくる側」からお金をもらって頭が上がらないという仕事をしている方が、というかその方が寧ろ多いのが実情なので話は簡単ではないのですが。。
もちろん万人が美食家であるはずがないのと同じく、もっと割り切って住まいをつくるのは自由だとは思いますが、でも一昔前の各家庭で素朴な手料理をつくっていた時代というのは実はなかなか四季それぞれに美味しいものを食べていたんじゃないかなと、何が言いたいかと言うと、素朴だけど質の高い住宅というのは万人に必要とされるんじゃないかなと思いますし、それは実は簡単におばあちゃんの味が出ない(大食品会社が頑張っても)のと同様に長年の経験やら知識が積み重なってこそできるものだと思います。ハウスメーカーには不可能だという事です。
続きがあるかもしれませんが、長いと飽きるのでこの辺で。
お庭
ガレージの奥の庭が苔庭になっていまして、昨日庭師さんが手入れに来てくれ、落ち葉を掃除してもらったのですっきりたところで撮りました。
ここは外観上もガレージが抜けた奥に見え、また事務空間から北に開けた庭でもあり、なかなか有効な庭として計画したのですが、苔庭にしたり、というのはかなりお任せしてやってもらいましたが、本当に良い結果になって、やっぱりもっと庭に費用を残してちゃんと作らなければいかんなあと再認識しています。
そして僕らは設計者として当然のように庭などの設計もするのですが、やっぱり本業のそして本当に好きでやっている方にはとてもとても及ばない。もちろん僕らも設計が本業で好きでやってますから、片手間の設計者なんかとはもちろん仕事の質が違うのです。
今回自分でつくって、本当に色々な事に改めて気づいたり、勉強不足を感じたりもしましたが、その分今後の大きな力にはなってゆくと思います。いやいや深い。
一方で世の中の浅い事。じゃないですか??
設計の依頼について
今日、住宅の設計を正式に依頼頂きました。それなりの数をつくってきても、やはり身が引き締まる瞬間ですが、でも、僕という人間にこんな大きな事をお任せ頂けるというのは、重い責任ですが、本当に楽しい事だと思います。
改めて設計料というものについて考えるのですが、しばらく前に出た国交省の告示では、それまでの工事費ベースとは違い、面積ベースで設計料の目安が定められました。
でもうちは10年前に事務所をつくった時から面積ベースでやってきています。
そもそも、設計の手を抜けば、工事費は上がります。それに伴って設計料も上がるのはおかしな話。逆に良い内容を少しでも安くなるように設計が頑張れば、伴って設計料も安くなるなんて本末転倒。という事で僕はずっと面積によって設計料を決めて、あとは出来る限りコストダウンをする努力をしてきました。
しばらく前に、ある設計事務所が、住宅の予算を大オーバーさせて、結局裁判になって設計料をもらえなかったというニュースで、僕らの業界は少し大きな話題になっていました。
概ねは、それだからと言って設計料が貰えないなんて判例が出てしまったら、今後も施主がゴネれば設計料を貰えないんじゃないか?なんて不安の声ばかり聞こえました。
僕も実際予算がどうしてもおさまり切らず、設計料である程度責任を取ったりもした事もあるので人ごとではないのですが、でも、設計者は工事はできないと言えども、ある程度はコストに責任を持たなければ、やっぱりいつまでたっても信頼はされないのだと思います。
だからその件で不安ばかり言っている設計者は結局自分の設計者としてのコスト管理能力に自信がないのじゃないかと思いました。
まあでも、設計事務所に依頼して設計をするというのは、ついついお互いに大きな夢を追いかけてしまいがちで、ついつい予算オーバーしがちなのは宿命でしょう。
でもそれでもなんとか了解のもらえる所までコントロールするのが僕たちの義務だと思います。
設計料も結構な金額にはなりますが、でも設計料を含めた総予算でも、費用対効果としては決して誰にも負けないつもりで仕事はしてきている自負はあります。
高いレベルを目指し、高い要求に応えてしまうので、結果単価が高いのはそれは当然なのですが。。
レベルは高いけど、敷居は低い事務所を目指しています。
とりあえずは気楽にご相談ください。決してしつこく営業はしませんので。(笑)
と一応PRもしておきます。
世は不景気ですが
テレビも新聞も暗い話ばかりですね。
景気に波があることは分かり切った事なのに、また、メディアが暗く報じれば報じるほどより不況に流れると分かりながら、まあ仕方ないんでしょうね。。
幸いと言っていいのか、住宅をつくるという事は、目先の不況に単純に左右されない面があるのか、ここのところも新しい依頼がそれなりにあったりもして、ありがたく思います。
でも、実は、昨年、鉄骨がとても高くなっていた事もあり、昨年設計していた鉄骨の住宅が、どうしても予算に合わず、ストップしてしまい、とても辛く思っていたところ、この不景気もあって、また急に鉄骨なども安くなって来たのは皮肉なことでした。
コスト管理には、当然というか、慎重に向き合っているつもりだけど、やはりより良くしたいがために、常々厳しいコスト管理となってしまい、神経をつかいますが、それでも、最初から諦めたような設計をしたくないので、挑戦的に設計するようにしていますが、なかなか大変ですよね。
でも、こういう目先が暗い時期にこそ、長期的な視線をもたなければいけないと思うし、住宅をつくる事に関しては、やはり、時間の経過に耐え得るものをつくることしかないと思います。
職を失ったら言ってられない事ではありますが、そんなにガツガツ働かなくても、気持ちのよい家で、ゆったりと過ごせるような価値観を持てれば、こんなに不況だ不況だと騒がなくても良くなれるんじゃないかな、なんて思います。日本は経済大国だ、なんていう脅迫観念は捨ててね。