三万年の死の教え
- 2018.08.22
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買って放置してありましたが少し前に読んだ三島由紀夫で「輪廻転生」が主題だったので手が伸び、でもとても興味深かったです。
簡単でない話だし中沢さんなりのまとめ方をされているので詳細などは置いておいて、でもまずチベット仏教においては輪廻して生まれ変わるのはある種の失敗であり、ある種また苦しみを繰り返すことであり、そうではなくて「解脱」することで輪廻のサイクルから抜けてしまうことが目指されて来た?というのはよく知りませんでしたがちょっと衝撃的でさえありました。
老僧の言葉「誕生の時には、あなたが泣き、世界は喜びに沸く。 死ぬ時には、全世界が泣き、あなたは喜びにあふれる。かくのごとく、生きることだ。」というのはそれを表していますが、つまり「死」とは「解脱」のチャンスなのであり、生きている間に「解脱」が出来るように正しく生きなければならない、ということで、だからこそその社会の倫理も保たれる、ということか。
また「三万年」というのは、オーストラリアのアボリジニにもチベットとかなりよく似た宗教観?があって、根っこでつながっているとすると、人類の移動の時期から3万年は経っている、と想定される、という少し乱暴なものではあるけど、世界の神話が似ている、つまり人間という存在の内側から必然的に生まれて来たと言えるように、宗教もそうだとすれば、3万年前の人類にも、その「原」宗教と呼べるものが芽生えていたと想像しても良いように思う。また、以前書きましたが「神々の沈黙」では人間の意識は高々3000年とかでありその前は神々の声に突き動かされていた?というように考えれば、それは当然宗教的なものでもあると思うし、そういえば岡潔さんも日本人のルーツについて壮大なことを言われていたっけ。
私たち人類には宗教的なるものが不可欠だということは明らかだとは思うけど、その宗教的なるものは、最初のピュアなうちは私たちを幸せにしてくれはしても、次第にその形式化した宗教が「生き残る」ことが目的となってむしろ私たちを弾圧し始めて来た、と言っても良いと思うんだけど、一方で確かに読んだ限りのチベット仏教(やアボリジニの考え方)はそのピュアさを留めているのだと感じました。
GovernmentもそうだけどReligionもOf the people ,for the people でなければそもそもの存在意義はない!と改めて見つめ直して見なければならないように思いますが、そのチベットも、様々な国際、政治情勢の力の中で、その宗教的ピュアさが逆に仇になってしまっているように見えますし、なかなか難しいですね。