21Lessons/Yuval Noah Harari

  • 2020.03.11
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書評を検索されれば、前作のサピエンス全史、ホモ・デウス、に続き本当に価値のある書物だと分かると思いますので、ぜひお読みください。
これだけの質、量ともに重たい内容を、できる限り伝わるように配慮されてますし、序文に「私は歴史学者なので、人々に食べ物や着る物を与えることはできないけれど、それなりの明確さを提供するように努め、それによって世の中を公平にする手助けをすることはできる。それに力を得て、私たち人間という種の将来をめぐる議論に加わる人が、たとえわずかでも増えたなら、私は自分の責務を果たせたということになる」とありますが、こういう学者がもっと増えれば世の中間違いなく良くなるのに、ゴロツキのような学者さんばかりですから見習ってほしいものです。
そしていつものように、優れた書評や要約は検索いただくとして、読後に思ったことを脱線しつつ僕なりに。。

まず、人間は「本能が壊れた」生き物だ、と言われますが、動物的欲求は普通にあるし、大部分の本能的なものは壊れていなくて、だからこそ生存もできているのだと思いますが、「本能」ってなんでしょうか?
僕は学者ではないので雑な表現はお許しいただくとして、本能とは「センサー」だと言えると思います。つまり「ある刺激」に対して反応するように作らられていて、でも他にも判断材料は身の回りにとても沢山あるんだけど、瞬時に反応しないと食われたり、食いのもを失ったりするので、対象を単純化した上で、それに反応するようなセンサーを搭載するのが本能というか。例えば魚などが持つ「走光性」は明るい方に寄った方が餌が多いから、とりあえず明るい方に本能が惹かれるわけで、結果人間に捉えられたりもしてしまうけど、それが本能ですよね。
同じく、CMで毎日有名人が勧めてる商品は、どうせその彼が使っていないことは明らかでも、ついつい買ってしまう。それは走光性によって人間に捕らえられた魚と同じですよね。
つまり本能っていうのは、相手がそれを利用して、いわゆる洗脳をしようとすれば容易にできてしまうようなもので、その結果がCMでもあり、宗教でもあり、国家権力でもあり、私たちが「当たり前」と思っているものの正体だったりするのだと思います。
とアプローチは違いましたが、著者が取り上げた、自由、平等、宗教、ナショナリズム、などなど、と言ったものの本質と、それらが私たちをいかに操って?きたかというところで接点ができました。

ただ、ホモ・デウス、でもありましたが、近代以前は、社会の流れがとてもゆっくりだったこともあり、上記のそれぞれが社会にある種の安定をもたらしてきたのですが、そこには国王や法王や、操る側、という存在が明確にあったのですが、現代のビッグデータとAIの時代に入り、社会が複雑化し過ぎて、誰も全体が把握できない時代になってしまった、というのは著者の言う通りであり、国王や法王を倒せば変えられた状況は、現在ではそうはゆかない事態になりつつあり、今後加速するのは間違いなく、AIの自動運転のように、安易にそれらに依存することで、我々人間には何も判断ができない世の中になりかねないのだ、と言っています。
「心」や「意識」の正体はまだまだ解明できそうにありませんが、でも僕たちが「自分」を感じるのは、やっぱり自ら環境情報を「感じ」「判断」しているからで、自転車で自分の思うままに走るのと、行き先だけ告げて車椅子にただ座って連れてゆかれるのと、後者は楽で良いのかもしれませんが、10年それを続けたら、どんな違いが生まれるか?何となく想像はつきますよね?
でもそれも、今まで宗教や国家に「依存」をすることで自分の自由の一部は奪われても、安心感(本当の安心かどうかは別として)を得てきたのと似ているのかもしれませんが、大きく違うのは、上記のように、宗教や国は相手が人間ですから改めさせることがまだできますが、SF映画にも描かれるように、人間の手に負えない状況にますます近づいてゆく、と言うことなんだと思います。

そして結びで「あと数年あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている。努力をすれば、私たちが本当は何者なのかを、依然としてじっくり吟味することができる。だが、この機会を活用したければ、今すぐそうするしかないのだ」と。
「私たちが本当は何者なのか」というのはつまり、私たちは「自由意志」で自分ですべて決めて進んでいるように錯覚しているけど、最初に書いた本能や本能を裏で操る大きな力によって、操り人形のように生きているに等しいので、まずはその「大きな力」としての宗教や、国家や、経済や、それらの正体を知る努力をしなさい、という本だったのだと思います。
また本書にもありましたが、「感情」というのも本能の一部で、海を見て美しいと思うのはそこに生命があり、食料があり、という意味でセンサーが反応していると思うので、人間以前に動物として健全に生きてゆくためには、感情を動かす「感性」というものを失ってはいけないと思うので、やっぱり建築は「美しく」なければいけないのだ、と持論にこじつけておしまい。