震災のこと

  • 2011.05.12
  • BLOG


もう2ヶ月経つんですね。恐らく被災されて不便を強いられている皆さんには随分長い2ヶ月だと思いますが。。
建築設計に携わる一人として、自分なりに言葉をまとめてみようと思いました。
まずは国家や東電の責任について。
昨日?東電の賠償責任に上限がないとの見解を与党が示し、今日の新聞では米戦略所長がそんな事をしたら原子力の存在の根幹を揺るがす、というような投稿をしていました。
また史実が語るように大きな津波は定期的に来ていた事を指摘してきた専門家と見ぬ振りをした国家や東電の姿勢も明らかなようです。
僕自身、勤め時代は大きな公共施設を担当する事が多く、今は住宅がほとんどで、その対比で良く思うのは、決定権を持つ人間=責任を負う人間、という構図でなければ問題が残るだけだということ。
もちろん公共施設なんて誰が誰のために作っているかが曖昧だから、今は使われず税金垂れ流しのハコモノができてしまいますが、住宅は少なくとも全責任をその家族が負っています。
国家や東電といった大きな組織で簡単でないことは確かですが、例えばあそこに原発をつくる計画をした人間は少なくとも昔の津波の事を知らなかった訳はないはずで、そして地位も収入も高い人間が下した判断だったはずで、今責任を取れと言えないにせよ、せめて名前くらいは明らかにしなければ判断の重さというものが省みられないままに終ってしまうように思います。
責任を何も負わなくて良い判断をするなら、そんな地位も報酬も高くなくて良いでしょうと。
僕自身は、もちろんその都度建築主さんと話しながらにせよ、耐震性や耐久性などについて判断をする立場にいて、耐震性と気持ち良さのバランスを取りながら時にはとても大きな窓をつくり、大地震のが起きた時の事が頭をよぎったりもします。
そして万が一の場合には責任を追及される立場にあるわけですから、恐くないわけがありません。
でも大きな窓や開放性を譲れない事も多い中で、慎重に判断をするしかありません。
これは専門家としての判断であり、判断というのはそうあるべきだと思うのですが、首相が浜岡原発を止めろと言った中にはそんな専門家的な判断は全くなく、他の原発を止めずに推進するための言い訳というかスケープゴートとしての政治的な判断がほとんどだったんじゃないでしょうか。
僕は人様からお金を頂いているプロのくせにまとも判断ができない大人は大嫌いです。
でも人間、平時には気持ちが緩むものです。
こんな時こそ、様々な緩みを徹底的に見直す事が大切ですが、今の政治家には難しいでしょう。
橋下さんくらいかな。僕らも維新の気持ちを忘れないようにしよう。