隈研吾さん
- 2008.03.18
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一般誌にさまざまな建築家がとりあげられるようになったのもこの10年も経っていないくらいだろうか。若手も含めさまざまに取り上げられたりしてきた中では、このように大きく取り上げられて当然の建築家とも言えますが、『「負ける」建築家 隈研吾のすべて』とは、ちょっと誤解を招きそうですね。
それは数年前に「負ける建築」という本を隈さんが出したからですが、「負ける」という言葉をどういう意味で使っているのか説明しないと訳が分からないとも思いますが、丹下健三さんのようなスーパースター的な、国家のシンボル的な建築をつくって来た「勝ち」の建築家と対比させて、もっと現実や人間や素材の弱さに正面から向かい合った建築をつくりたいという意味で「負ける建築」なんです。と一応解説。
画像の表紙にもあるのは、TVCMにも出た竹の建築で、他にも基本的には、ルーバーや、透かす事を主題として建築をつくってこられていますし、僕もいくつか建築を見た中では良いものもありましたが、どうも軽薄さを感じてしまったりもします。
確かに目新しく、軽快で、楽しい建築なのですが、どうも「技」に頼りすぎているように思いますし、今後年月が経つ中で、はかなく消えてしまいそうな建築に感じてしまい、でもやはり、建築には永遠性を感じていたいと思う気持ちが、隈さんの建築に物足りなさを感じてしまうのかもしれません。
隈さんは著書でもとても社会の中における建築を冷静に分析して、相対的な評価をできる方なのですが、何となく言葉が先に走っているというか、本当に良い建築には言葉なんて要らないというか、言葉に出来ない苦しみから生まれてくるように思いますが、言葉で上手に語られてしまう建築をつくっているように思います。
でも、隈さんの本や文章は僕も好きですし、それなりには読んで来ています。
今までの建築家と言われる人たちは、ちょっと建築の狭い世界の中で語っていたような感じがある中で、その建築の絶対性みたいなのを相対化して、たまには茶化してくれたのは、とても良い影響を与えていると思っています。
我々が建築を考えるとき、言葉や概念と、その形との間を行ったり来たりして考えます。
もちろん言葉や概念だけでは形にはなりませんが、ただいきなり形が生まれてくることもありません。
「建築家に必要なのは、才能でもセンスでもなくて、ネバリだけだ」とは丹下さんが、隈さんの恩師の原広司さんに語った言葉との事ですが、言葉と形の間を何度も往復しながらネバッてネバッていると、やっと良い建築に辿り着くんだと思います。