釈迦の教え

  • 2024.07.15
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仏教についてたまに読んだり書いたりしてきたけど、キリスト教もそうだろうけど、なんでこんなに「複雑」なんだ?と思う。
本書はその理由も分かりやすく伝えてくれるけれど、つまり「釈迦」が伝えた本質を後の人々が歪め、それを理屈で補うためにいろんな屁理屈をくっつけ出したから。
釈迦の本質とは?。「無我」と「縁起」を押さえれば概ね良いとのこと。
でもその「我」がややこしく、仏教が生まれたインドではカースト制という強い身分制度があり、生まれの違いを正当化せざるを得ず「輪廻転生」を否定できない。でも輪廻するってことはつまり「我」があるということ。また輪廻をする前提で、良いことをすれば良い生まれ変わりができる、という倫理を唱えられ、仏教が経由し発達した中国では道教とか倫理性が強い土壌があり、やっぱりそっち寄りに仏教が変質させられもしたようだ。そして日本でも霊や祟りを信じる土壌があったので、やっぱり輪廻と「我」を仏教に取り込むしか無かった面もあったようだ。

でも現代人には「我」が無いって言われても理解し難いと思うが、魚に「我」があると思う人はいないと思うし、人間だって昔はおそらく「名前」も持たず「群れ」として生活していた頃にはおそらく「我」なんて無かったかとても薄かったんじゃ無いかと思う。
脱線だけど、ずっと前に読んだ「神々の沈黙」には「神々」が人間を導いていた頃があって、ピラミッドなどの今でもどうやったら作れるかわからないものはおそらくその声に導かれて作っただけであり、「我」が大変だなあと思って酷使されて作ったわけでは決して無い、と僕は思っている。
働き蜂はその労働を疑問に思ったりしないし、ただ生まれ、働き、死んでゆく。それが「自然」のありのままの姿であり、「平等のいのち」であり、偶然生まれてここにいるのが「縁起」。
それが宇宙の真理?と言っていいのか、それが「如来」や「仏」の示すところらしい。でも良く無いと思うのは「仏像」が作られすぎて如来や仏というとあの姿しか浮かばず、念仏を唱えれば、何か良いことを「我」に施してくれる、と錯覚してしまう。それがお寺として仏教が栄えるために必要な手口だったのだ。

つまりたまたま「縁起」でこの命を授かるのだけど、死んだら宇宙や自然の大きくて静かな海に還るだけであり決して生まれ変わったりしない。
生きているのだから最低限の「煩悩」を断ち切る必要なんてないけど「無我」であれば余計な欲や執着は湧かず、命を食糧としていただくなら「頂きます」と深く感謝する。そういう心があれば無駄な「倫理」など必要はない。無駄な競争もなく、「個人の自由」なんて存在しない代わりにそれぞれの能力に応じて、群全体として一番良い結果に全員がひたむきに働く。アリやハチの世界だけじゃなくて、古代文明と言われるものは僕はそんな感じだったんじゃないかと思う。
そして西行、利休、芭蕉なども、そういう悟りの先にあのような世界を作ることができたと思うから、やはり「無我」こそ本物なのではないか。「売れれば良い」という傾向がますます強くなる現代はそんな本物をさらに遠ざけてしまっている。

あと「臓器移植」について触れられていたけど、生きるも死ぬも「縁起」であり生にしがみつくのは「我欲」でしかない。自分や他人の死を静かに受け入れる、という心がないから世の中争いがなくならず、お金の力で何でもできる、となってしまう。

提案。葬式やお墓は歪んでいる仏教/お寺を儲けさせるだけだからやめる。生き残りたかったらちゃんと仏教の本質/死について語り、無駄な延命に反対し、今後の日本を壊す高齢者医療費が下がるような働きをしてください。

表紙の絵は畠中光享さんで、それだから買ったような本ですが、これも縁起ですね。とても良い本に出会いました。