道元/和辻哲郎

  • 2020.02.11
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日本人おける仏教という存在は本当に大き「かった」と思うし座禅なんてする前に道元がなぜ座禅を重んじたのかを感じた方が良いと思っていたりしまして。序の部分で和辻さん自身、門外漢であり信者でもないのにこのようなものを書くことに対して仏教界は「お前なんかにわかるか」みたいなことを言うだろう、でもだからこそ、離れたところから見なければ見えないことがあるから私は書くのだ、と言いつつ、結びで「挫折」であったとも記している。でもまあ挫折しないわけがないというか、道元や空海でも、目指したところを文章で描き切る、なんてことはできないと思うし、でも一方の今の仏教の各宗派のように道元のような「祖」とする存在についての理解を深めようとしたり、他の派との壁を取り払って「仏教」というものをもっと本質的に伝えようとしたりしないで、単なる既得権の行使のようなことをやっているからますます仏教は振り向かれない存在になってしまっているのだと思うから、このような書は、書かれ、読まれるべきなのだとも思う。
またいつもの雑で勝手なまとめになりますが、「念仏」を唱えれば「浄土」に行けるとした浄土系仏教は、人間の外というかずっと上に、超越的な大きな存在(阿弥陀様)があり、悪人であろうが煩悩にまみれていようが、念仏を唱えれば浄土に行けるというもので、その結果?今でも信者数は圧倒的に多いようです。まあ念仏すりゃいいんだから、ってうまい誘い文句だと言えばそうですよね。そして空海の真言宗でも超越的な大きな存在としての大日如来があるという意味では同じ構図と言えるのか。。
一方の道元は、それは違うと考え、そのような超越的な大きな力は、遠くにあるのではなく、それぞれの人間の中に入ってくるものだと考えたようで、「自己を空しゅうして仏祖に乗り移られることを欲する」そのために座禅をして、自分を「空っぽ」にすることのようだけど、そう考えるとやっと「座禅」の意味と重みが自分なりに理解できたように思いました。が、根っこの部分では、仏教とは人間の認識が色眼鏡的な、偏ったものから逃れられないことを前提に、それをいかに克服するか、それができれば仏に近づける、と」考えた部分では共通しているのだとは思います。
なんて、ちょっと本を読んだくらいで分かったような事を書いているようだけど何も分かっちゃいないのでお恥ずかしいけれど、「大きな力」が人間のずっと上にあったり、「経典」が絶対的だったりする(キリスト教もそうでしょう)宗派は、まあそれが絶対的だから、我々の行動規範としてもわかりやすいんでしょうけれど、道元の曹洞宗は、それぞれの人間の中に仏が入ってくるし、それぞれの人間の置かれた状況(殿様なのか乞食なのか)によって現れるものも違うわけで、道元の現実世界における言説というのも矛盾の多いものにならざるを得なかったようです。そしてそれを「葛藤」という言葉で表し、でもそのグルグル絡み合ったものから弁証法でいう止揚が起こり高められるのだから、葛藤は必要なものだ、というようなことも記していたようです。そこはちょっと難しいですが、でも確かにキリスト教のように与えられた真実が、進化論と相容れなかったりするように、与えられた真実なんてものはないのだから、道元のスタンスの方が正しいようにも思えます。

そして現在は、道元の時代とは全く違った、「カオス」な時代。いくら座禅しても「空」にはできないもので溢れかえってしまってますが、でも「自己を空しゅう」することは今も変わらず求めるべきことのように思います。