造物主義論 磯崎新
- 2023.03.31
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買ったまま読んでなかったままだったので。。タイトルが物々しいですね〜
建築設計をするって、何もないところから無限の可能性の中からある「形」を生み出してしまう。
でも今の私たちが「無限の可能性」を相手にできているかといえばノーだ。
敷地や予算や要望や、という制約の中でも、無限、とはいえないまでももっと可能性があるはずなのに、現実の世界や雑誌やメディアで「見慣れた」ものに近づけておけば良いと、その範囲で無批判に作ってしまうのは、逆にいうと「見慣れない」「突飛な」ものを生み出すのはとても大変だし、その上で正当に評価されないとしたら悲惨なので、安心側に寄ってしまうのは、人間の人生も同じことだ。
そんな下世話なレベルでなく、「名建築」と呼ばれるものたちにしても、その時代の美意識や枠組み、それから逃れようとする建築家の恣意的な価値観に「囚われ」てしまっているものであり、その「安易さ」が許せないのが磯崎さんだったと言えるように思う。
その辺の人間を観察して見える範囲で「人間とは」と帰納的に論じるのは安易であり、逆に演繹的に本質としての「人間とは」を問うのは必然的に哲学的になり、それと同じことを建築で考え続けたということかな。
「恣意性」を消した結果「作家が消える」ことで「馬鹿馬鹿しいまでに単純化され」「動かし難い存在感を持つ」。磯崎さんが初期の作品で立方体フレームにこだわったのはそういう理由であると。
和風建築の世界で言えば、趣味や様式、美意識の世界にしかすぎないと、吉田五十八、村野藤吾、吉村順三なども下しつつ、堀口捨己のみ、「自らの方法としてそのデザインを問題構制に組み立て得た」と評価する。
でもというか、だからこそ、磯崎さんも堀口さんもだけど、できた建築がそっけなく、味気なく感じるのは当然とも言えるし、村野藤吾が渡辺節に「売れる設計をしてくれ」と言われたように、建築には「味気」も必要だとも言える。でも最初から味気を追ったら名作は生まれず、「愚作論」に書かれたように駄作ではなく愚作となってしまうかもしれないものの先に名作が生まれ得る、つまり、空振り覚悟でフルスイングすること、なのかな。足元を見て安心して歩むのではなく、遠い先を常に意識しながら転ぼうが進んでゆく、みたいな。でも村野さんはその「味気」にフルスイングしていたように見えるから好きなんだよな〜。
でも世の中ますますチープな味気に満ちてきてるように思うから、磯崎さんが残したものを、難しいけど時々噛み締めてみなければ、と思うし、小さくとも、自分なりの「問題構制」というものを組み立ててゆきたいとは思っている。