豊饒の海/三島由紀夫

  • 2018.07.30
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全四巻でしたが、これほど飽きずに読ませられたのは最高の小説だからでもあるし、今の年齢になった自分だからでもあるし、と思いますが、彼は僕が生まれる前の年(昭和45年に)45歳の生涯を自決、という形で閉じ、僕は彼より少し長く生きてしまって、やっと彼の小説に少し向き合えるようになったのかな、という感じです(が、深海を水面から覗き込んでいる程度で)

僕には最高でも、みなさんにおすすめできるものではないし、この際内容のことは放っておいて、改めて思わされたのが、なぜ「小説」なるものがあり、それを書こうと思う作家がいるのか?

音楽や芸術であれば、どこの文化にも初期のうちに素朴なものがあり、それが権力との関係で「無駄に派手に」育っているように思うけど、奏でる喜びや、表現する喜び、というのは多くの方が実感として共感しやすいと思う一方、自ら物語を空想して文字にする、という喜びが、僕らの中に眠っているのか?と言われると????じゃないでしょうか?(僕にその才能が欠けているからわからないだけかも?)

そして、三島やドフトエフスキーなどの高い評価を受ける作家たちは、社会とのある種の強い葛藤の中に置かれていたからこそ作品が書けたように思うから、音楽や芸術が、根っこが「喜び」にあるのに対して、小説の根っこはある種の「悲しみ」なのかもしれないなあと、文学に慣れ親しんで育ったわけでもない僕が書くのも笑止!ですが、社会というのは必然的に理不尽で、それに対する必要悪として小説や物語もあるのかなあ。と思いますし、だからこそ、三島は死んだし、好きな音楽で生きている人間が自ら(ドラッグで死ぬとかではなく)命を絶とうとは思わないはずですよね。

でも作家さんが皆自死を目指すわけでもなく、また「小説」という定義もこれが書かれた時代にもそうだったようですが、現在ではさらにさらに曖昧になっているので、話が混乱するに決まってますから、勝手に小説の定義をするとして、まず「社会に不可避な理不尽さに向き合う」もので、その理不尽さはいつの時代もどの世界でも根っこは繋がっているはずなので「時代と場所を超えて読み継がれる」もののみを「小説」と限定してみると、社会の理不尽さを誤魔化すことで巨大になろうとしている「消費社会」で売れるようなものは、そもそも小説であるわけがない、となります。そして裏を返すと、今の時代に「小説」なんて必要とされていないんじゃないか?とも言えるのかもしれません。

でもそんな「小説」でなければ読む価値がない、という意味では全くなくて、前もどこかに書きましたが、「文字」という単なる記号だけで、人間の五感や記憶や、、を総動員させるような存在、というのは人間にしかできない素晴らしい体験ですし、人間が人間らしく生きるための唯一のトレーニングでもあるとも思いますし、世の中の「理不尽さ」に特に興味がなければ小説ではない物語を読むべきだと思います。

いや、世の中が、ではなく人間という存在自身が「理不尽」だから彼は命を絶ったのかもしれません。

そして建築の世界も(人間が作るものだから当然ですが)とても「理不尽」だと思うことが多いし、今の音楽も芸術も理不尽だらけだと思うけど、小説と違って、建築や音楽や芸術は、それが生まれた時の素直な感情(つまり喜び)に戻って作りさえすれば、その理不尽さから逃れることは、とても困難だけど「可能」だと信じているので、逃げずに頑張り続けたいと思います。