考えるヒント

  • 2013.06.22
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小林秀雄をきちんと読もうと本居宣長も買っていながらなかなか手がつけられず、エッセイ集のようで読みやすいかと読んでみましたが、いやいや中身の濃いこと。そしてやっぱりすごい方だ。
今後は腰を据えてもっと沢山読みます(と宣言します)
まずはそのスタンス、というか生き方。一応批評家という仕事なのに、
「作品評をする興味が私を去ってから久しく、もう今では、好きな作品の理解を深めようとする希いだけが残っている。尤も、嫌いな作品とは作品とは言えぬと判断した作品で、判断は直に無関心をもたらすから、私には嫌いな作品というものもない事になる」
と、世の中の批評家たちは、お金をもらって批評をするから(先日書いた骨董の鑑定と同じく)何か良いところを見つける努力をしたりするのでしょうけれど、それを拒絶してしまっているのだから、羨ましいと言えば簡単だけど批評家が思っても無い事で誉めたりするから世の中程度の低いものが評価されるようになってしまい、多くの人々から見る眼を奪っているとしたら、それは罪な事ですよね。
一方で、「自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものはない」つまりは、自分の好きなものを見つけて、好きな理由を書いている、という事になると思うけれど、だからこそ、深く深く深める事ができたのだろうなと思う。
「主張と宣伝とでいつもいがみ合っている政治家より」「直接的な見聞交際から勝手な事を喋り散らして帰ってゆく」「爺さんの方が、余程頼もしい」なんてのもありましたが、要するに自分で接触して確実な経験をしなければちゃんとした事は感じられないし、言えないという事だけど、まあ僕らは誰それの「主張」を真に受けて洗脳されてしまっている部分が殆どじゃないか?とも思います。
書き出せばキリが無いのですが、解説でも触れられていましたが、本居宣長の「姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから無くだろう。・・・」
これは随分大切な話で、実は私たちは逆に、姿は似せ易く、意は似せがたい、と思っているんじゃないかと思うけれど、それが逆だと自ら深く理解するには、やはり小林のように、深く深くものを観る事ができなければできないのではないかと思う。つまり僕らは表層しか見えていないのだ。
「泣く」という感情は言葉がなくてもわき上がってくるもので、状況や人によって様々だろうけれど、それを「泣く」という言葉で括ってしまうことによって、お互いが、泣くという意味を共有できるのは良いけれど、その微細な、また深い部分というのを切り落としてしまっているのだ。
泣きまねは簡単だけど、心の底から涙を流すというのは難しい。それが「姿は似せがたく、意は似せ易し」ということなんでしょう。
それはひとつの例ですが、芸術や音楽やもちろん建築も、その本来的な奥深い姿というものを感じられるようになりたいし、小林というのはそう言う方だったようで、生き方そのものにとても強い共感を覚えます。
それで感化されて陶器とか興味もってしまったのもありますw