続「甘え」の構造

  • 2008.02.25
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以前から「強さ」「弱さ」ということについて、思ったり、書いたりもしてきて、というのは、現代思想の考え方のある部分に、人間は弱さを背負って生きているけど、それぞれの人間が、もっと自立的に強くなれば様々な問題が解消する(とかなり乱暴なまとめかた)とか、「家族」というものも、もっとそれぞれが自立的な姿を模索されるような議論が住宅設計の中でもあったりとかした中で、その「強さ」というものを「人間」に求め得るものなのか??一部の人間は可能でも大多数の人間にはそれは酷ではないかと思ってきました。
もちろん、だからと言って「弱い」つまり、人間存在というものに対して無自覚で流されて生きているような姿を肯定するつもりもなく、「強さ」と「弱さ」の間をとりもつ何らかの思想が必要だろうと、多分大学生くらいから考えていたように思います。
そんな中で、この「甘え」という言葉の中に、それに答えてくれる何かがあると感じて、以前に「甘えの成熟」という本を読んでいたのですが、それより前に「甘え」について書いていた本を改めて読んでみた、という経緯です。
自分なりに読んで思ったことですが、「弱い」ものが「強い」ものを一方的に欲して、守られているという事ではなく、両者は実はもたれ合った関係で、例えば、大きな魚にコバンザメがついて居たり、イソギンチャクにクマノミが住んでいたり、お互いの依存関係の中で存在しているとこうこと。
そして、その「弱さ」が必ずしも改善すべき対象ではないということ。つまり、必ずしも「自立」させるべきではなく、その依存関係の中で必要なものとして考えるべきものだということ。
何だか一冊の本をこんなに粗くまとめてしまうのはどうかとも思うけど、本って、なんでこんなに回りくどく長く、厚くさせているのかなあ、きっと本を売るのには本質だけ書いてしまっては薄っぺらくて売れないしありがたみがないと思っているのかな、なんて思います。
でも、基本的には、僕もそうだと思います。
ただ、建築というのは、その「強い」側の論理でつくられてきましたし、逆に、現状のハウスメーカーなどは、住む人間を「弱い」ものとして馬鹿にしていると思いますし、「つくる側」と「使う側」が「強い」「弱い」関係から、もう少し良い共存関係になるべきなんだとなんとなくずっと考えてきました。
以前にも似たような事は書きましたが、そんな事を軸に自分の建築のつくりかたを整理してゆこうと思っています。