篠原一男 by 多木浩二
- 2008.11.17
- BLOG
僕も住宅設計をさせて頂いていて、常に、どのように設計をしたら良いか思い悩み、果てしないところで、何か手がかりを求めているわけですが、そんな中で、共感する先人のつくったものを見たり、文章を読んだりしています。
難しいけれどとても惹かれる一人が、故、篠原一男さんで、付き合いの長かった多木さんが、篠原さんの中に隠れていたものを伝えてくれています。
「住宅は芸術である」というのは有名な言葉ですが、「住宅は自由を高らかに表明することで、この巨大な社会のなかに生きる確実な、そして唯ひとつの存在理由をもつことができる」という言葉と合わせるてみると、確かにその他の様々な建築物が、経済原理の中でつくられ壊されしている一方で、住宅だけには、人間の本質と関わる事ができる何ものをを追求する事が残されているように思います。
また、初期の作品は特に日本的な表現であり、そこを出発点にした事について、長いですが大切に思うので引用します。
「確かなるものだけを追い続けてきたという感じがします。日本の伝統というものは仕事を始めたばかりの私にとって一番確かなものに思えました。それは個人の内部からつくられたものではなく、千何百年かのこの国の文化の集積ですから。もちろん歴史が長いからと言って論理的には無条件な確かさを保証されている訳ではないのですが、相対的な問題としてどのような新しい芸術よりもそれは確かなる物なんだとおもいます。相対的な確かさを持たなければ伝統にはならなかったはずです。。」
もちろん絶対的に確かなものはないのですが、それでも確かなるものを希求しようというスタンスがあるかどうかで建築家がつくるものは大きく変わってくると思います。でもモダニズム以降の主流は、確かなるものを前提とせず、論理性を組み立てながら建築を量産してきたように思います。
論理というのは、「ある前提」のもとに組み立てられるわけですが、その前提はもしかして間違っているかもしれない。一方で、「確かなるもの」というのは山の頂上のようなもので、登り方はいろいろあるけれど、登ってゆけばきっと同じところに登れるだろうような事でしょうか。
ただ「伝統とは創作の出発点であり得ても回帰点ではない」と断言しているように、伝統的なものに張り付いている「意味」というものはそぎ落とし、形式として伝統を出発点とし、次第にとても抽象的な幾何学的な形式へと進んでゆきます。
先ほどの「自由」や「芸術」という言葉の通り、新しい意味を生み出すような方向へと進んでゆくのですが、僕は初期の日本的な形式をベースとした作品たちが好きです。
で、僕の勝手な推論ですが、堀部安嗣さんも、どこか篠原さんと近いところに軸足を置いているような気がします。
このブログ読んでいる物好きさんは、今週末浜松で堀部さんの講演会があることはご存知でしょうね〜。それにひっかけてみました。