私の自然観-今西錦司

  • 2015.02.15
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先日のドーキンス的なのが恐らく進化論で正統とすれば、今西さんは少し異端的だと思いますが、前も「進化とはなにか」をここにあげたと思いますが、大学の頃から今西さんの方が正しいと感じてきて、何故自分がそう感じるのか、もう少し分かるかと本書を読んでみました。

思ったのは、たとえばDNAが全て解読されたところで、人間や、私自身の本質にはたどり着けなくて、結局は本書の「自然観」つまりある種の思想をもって本質を感じるしか無い、という意味では、前者やドーキンス的なものは科学者の行いであり、今西さんは思想家なのだろうな、と思いましたしだから今西さんに賛同するんだろうなということです。
今西さんは、例えば本流の考え方である、突然変異がランダムに起こる、という事に異議を唱えていて「設計主は、生物の進化論であるかぎり、生物にあるに決まっている」「個体がバラバラに、でたらめな突然変異をするのではなくて、どの個体も、多少の後さきはあるにせよ、みな同一の突然変異をするのでなければ、話があわない」と言っていて、僕は恐らく大学時代にそれを読んでからずーっとそう信じているように思う。

今西さんは、山に登り、四季折々の渓谷を探検するのが何より好きだったようで、他方都市的な人工物には興味がなく、だからカゲロウや猿の研究をしたりアフリカなどに行ったりしていたそうで、つまりは子供の頃の好奇心と感受性をもち続けたと言うのかもしれないけれど、結果として「人間も生物の延長にすぎない」とか「生物もまた人間と同じように主体性を持ち」という思想、といっても東洋的であるに過ぎないと言えばそれっきりだけど、一流の学者にしてそれを貫けたからこそ評価もされているんじゃないかと思う。
あと読んでいてなるほどなと思ったのは、人間はかつてまだ原始的な社会を営んでいたころまでは「社会外的な環境に対する適応」をしていればつまり自然の摂理に従っていれば良かったのに、今では「社会内的な環境に対する適応」をしなければいけなくなっている。つまり色んな法律や道徳やルールに従ったり、人間関係に必要以上に苦労したりしなければいけない世の中だけど、日本の庶民レベルで言えば、100年も前なら、結構前者だったはずだし、今の窮屈な僕たちよりずっと良かったかもなあ。ということです。
何故進化とかに興味があるかと言えば、やっぱり冒頭の言い方をすれば知識が欲しい訳では決して無くて、僕なりの「自然観」「人間観」を持たないと設計はできないと思っているからなんだと思います。