私たちはどこから来て、どこへ行くのか/宮台真司
- 2014.12.25
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「まともな人間がまだ数多く残っているうちに、まともでない人間たちをなんとかしようというプログラムを作らなければいけないのです」なんて言いにくい事をズバリと言うので、聞こうとさえしたくないかもしれない。
今の世の中、(本当に重要な事で)言いにくい事だから言わないでおく、逆に、見たい所だけ見る、という新聞でなくてネットでいいじゃん、という所にもつながる状況が、原発もアベノ暴走も止められないどうしようもない社会をつくってしまっていて、でも社会学者としてそれを(学者らしくそれらしい当たり障りのない事をいうクソ学者ではなく)実際どうしたら変えられるかを真剣に考えてこられている方だと思いますし、とても読むべき書だと思いますが、分かり易く書きすぎると本質がボケるからかそれなりに難しく読み易いとは言えないですかね。。
また、民主党政権が失敗に終わった理由を考える時、4つの層に峻別するべきとして
1)菅直人政権にプロパーな問題
2)民主党政権にプロパーな問題
3)日本の政治システムにプロパーな問題
4)グローバル化状況下の先進各国の政治システムにプロパーな問題
これって本当に当たり前の話だと思うのだけど、でも1や2だけで評論家ぶったり結論付けたりの言説しか聞いた事が無いくらいに思うけれど、その前に3、4がそのベースとしてあるのに、日本人は特にそれをしようとしない、というか根本的に解決をしようとしていないんじゃない?と良く感じるのですが、それは「どうありたい」といういう内発的な意志がないからじゃないかと思うしそれがなければもちろんそうなっちゃいますよね。
関連して「『良い社会』とは、特のある者が溢れる社会のことです。徳とは<内からわき上がる力>です。。。。徳=内からわき上がる力は、人々のリスペクトを集め、感染的模倣の輪を拡げます。そのようにして最大限の社会成員が有徳=内発的な振る舞いをするようになった社会こそが、アリストテレスによれば『良い社会』です」と。つまり現代(特に日本)はそんな内発性をかなり失いつつあるかなり危機的状況になっているはずなんだけど、多くの人々や政治家たちも、それが流れなだけでその前提でやることをやるだけ、としか思っていないようです。一方の宮台さんは当時、援助交際少女達に色々聞いたりしたりとかサブカルの研究など、人々の変質の生々しい所に触れ続けてこられたからこそ分かる事や危機的に思う事があったんじゃないかと思います。
ところで、こんな社会に変わってきた理由として「摩擦係数」の低下という言葉が使われていて、つまりネットが最たるもので、その前でも各種通信交通手段が人々の様々なコミュニケーションの敷居を下げた事で、古来の、ある閉じた人々と価値観で生きていた状況を一変させたわけですが、これは僕の喩えですが、昔は様々な物質が固体として転がっていて、それが流動化/液体化して様々な色の粒子が混ざり合いながらもまだ同じ色同士集まろうとしたりしていたけど、そのうち違う色だったのに擦れあっているうちに全部同じ色になっちゃって、あれ、自分は何色のどんな物質だったんだっけ?となっている感じというか(余計意味分かりませんねw)
宮台さんは「秩序」「未来」「自己」の時代に移り変わったと書かれてますが多分、与えられた信じるべきもの、みんなでつくった信じるべきもの、そして自分以外に信じるべきものがない、という時代と言い換えてもいいように思いますが、それは上記の物質の3態と同じです。その2つ目の段階がモダンと呼ばれ、建築の世界ではコルや丹下がその信じるべきものだったけど、3つ目の段階のポストモダンは槇さんが言う意味で大海の上で皆で乗るべき船を欠いた状態というのか。
本書はやはり下らない新書ではないですから社会学者として難しくならざるを得ない書かれ方なので、そんな書き方はされてないですが、でもやっぱり「内発性」こそ大切で、そこから出たものは信じるべきものだと思いますし、それが集団的な内発性から生まれればそれはその集団が信じるべきものとなるはずで、だからなぜ人を殺しちゃ行けないのか?はそんな集団的内発性からうまれたはずだけど、今じゃ何故人を殺しちゃいけないのか?が単なるルールだからとしてしか感じられない時代になっちゃったんだと思います
さて、それで自分としてはどうしたら良いと思うのか?
宮台さんも本書じゃないところで書いてましたが、人間って誰でも「承認」されたいから他人を全否定するような「殺人」をできないはずだと。その承認というか「君は君でいいんだよ」という安心感、言い換えれば誰しもに「顔」がある状態(今は上記の通り顔のない人が増殖してしまっている)を回復しなければならない。だから「個性」なんて上辺のレベルじゃなく多分昔は個性なんてなくても狭い地域の中できちんとした自分の位置づけがあったから安心して生きていられただろうというような事そのものは取り戻せないからそれの質的代替物をどう生み出してゆくか?そこはやっぱり「質」のある仕事だと思う。それは、おふくろの味、とか家事もそうだし、地味だけと良い仕事をする職人、とかやっぱり身の回りにそれが欠けると困る仕事や人っていうのはそこに居場所があるはずだけど、全てが便利になっちゃって、外食やコンビニなどがおばあちゃんを単なる老人にしちゃったと思えば、やっぱり大罪だと思う。
それ以外のサラリーマンはどうすればいいか?ってそれでも自分の仕事の存在意義を真剣に考えることを通じてもしかして転職したくなるかもしれないしそれはきっと社会のためになるんだと思うけど、考えることを通じて、きっと今まで見えなかった、身の回りの人たちのありがたさや国の体たらくさが見えてくるんじゃないかと思います。
アメリカはヨーロッパより宗教に対して強い依存?があるようだけど、それがあるからあれだけ多様な社会が成り立っているような事が書いてあってそれはとても納得できるけど、今の日本にはもうそんな存在はなさそうだから、やっぱり仕事(家事も含めてね)からかなあ。。とこれは本書とは全く無関係。
最後に、タイトル、とても大切なところだと思います。
建築を考えるのも、どこから来て(つまり歴史や分析など)どこへ行くのか(どう変えてゆきたいのか)が根底にあるべきなんだけど、本当に時代と一緒で多くは表層的だし、メディアに載るものが特に表層的なので流れは加速しちゃうんでしょうね。
いやー全然消化不良で書いてしまったので、無駄な長文になっちゃいました。