知的トレーニングの技術

  • 2016.01.04
  • BLOG

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新年最初です。が、まあしばらく前からじっくり読んでました。。

入手困難な伝説のテキストが文庫化、という大げさな表現も読んでみるとなるほど、という本当に内容の濃い良い本。

新書でも似たようなものはイヤという程あるかと思うけれど、大事なのな「知的」が指し示すところで、「制度や組織やシステムにばかり頼って、個人の知の主体的力量をたしかめるトレーニングが行われなく」ならないように「古風と思われる古典的な知のスタイルの再発見という方向に」という前書きが示すような書ですが、本書が最初に出たのが1980年らしく、上記に更に「情報(の過多)」が加わる事で更に主体的な知は困難に向かってしまっているとも思いますが、というかだからこそ読むと良いと思います。

「読み、書き、考えるための技術」において「思想を持つとは文体をもつこと」、「書くことによって思考にかたちをあてていく」とありますが、僕もこのブログを続けてはいるけれど、また卒論の頃からですが文章を書くのに精一杯になってしまってきた面はあるので、とても納得させられるようなトレーニング方法、というか習慣が多く記されてました。また「孤独な思考空間が、自立した思考や独創的な思想を可能にする」とあって、西欧人は子供を最初から一人で寝させたり個室を持たせたりする事と、日本が逆である事によって日和見的な国民になってしまっているのには因果関係があるのでは?と思ったり、僕も1人読んでたり酔ってたりすると尖った発想になり易いのは確かだな〜などと思いました。
でもそれより僕が面白かったのは、「この、万人の筋肉感覚の経験から当然と考えられ信じられてきた結論がくつがえされるのは、ガリレオやニュートンが発見した『慣性の法則』によって」であり、「ここで成立した古典力学が、ピストンを生み蒸気機関を可能にし、やがて産業革命をひき起して、全地球を100年足らずで資本主義の体系に組み込んでしまう」のだけど「科学は考えない事を理想としている」つまりは個人の身体感覚を前提としない理論なんだから個々人が判断したり考える必要はない、という意味である種宗教的なのであり、個々人の生々しい「生」というものは当然捉えられないのが科学だという事だと思うけれど、ご存知の通りそれを乗り越える?ために多くの偉人が悩んで来て、本書にもレヴィ=ストロース、ハイデガー、ニーチェなどの名前が出て来ましたが、そんな科学の奴隷はニーチェが言うところの「けだもの」であり、人間である限り「絶えざる自己超越としての超人」を目指さなければならないのだけど、著者は科学は僕らに何も考えない「節約」を強いるのに対し、そんな超人となるためにも「浪費」が必要であり「祭的な象徴浪費こそが、人間の人間らしさ、真の豊かさ、文化の次元を定義づける」し、「無上の快楽と破滅の危機とをあわせもった思考でなければ、真に『創造』的な思考とはいえない」と本書の目的として結んでいます。

バタイユとか知っていればピンと来るでしょうけど、それでも理解しにくいところはありますよね。で、自分なりに考えたのは、人間って脳の能力のごく一部しか使っていないと言いますし、動物も含め、様々な環境に適応したり、すごい身体能力を発揮したりする訳ですから、それぞれの個体の中にまだまだ余力がある、という事じゃないかと思いますし、特に人間は食べたり危険から身を守るというという生命として一番基本の部分で楽をしている訳ですから、余力が有りまくる、だからそれを発散する場として祭りがあり、芸術があり、スポーツがあり、またそれを私たちの身体が欲しているからこそ世界中にそれらが普遍的にあるのだと思いますし、それこそが人間らしさですが、科学なんて基本的に人間を疎外している事は上記の通りですから、そろそろ科学は捨てられないにせよ、科学に飼われるのではなく、科学を飼いならせるようにする、それが超人じゃないのかな、なんて思いますし、僕も目指したいとは思っていますw

もっと触れるべきところは沢山ありますし、こんな乱暴なまとめを読んでも何のこっちゃ?かもですが、こんな文章でも興味をもたれたなら是非おすすめします。