痩我慢、専制について/福沢諭吉
- 2014.02.09
- BLOG
現代語訳ということもあり読みやすかったし、面白かったです。
諭吉は中津藩で下士族の父を持ち、上士族との強い差別によって父は無念な生き方をしたようで、時代も変わり、それもあってか諭吉はそこから上手く抜け出した?ようで、その辺りの時代背景が「旧藩情」に描かれてます。これを読みたくて買ったのですが「痩我慢の説」
国をつくって、国境をつくって争いを続けているというのは、「自然の公道」ではなく、「人間の私情(個人的な感情)」から生まれただけのものであり、民族が言語や文化や歴史を共にしてきた結果離散する事もできなくなり、国や政府をつくり、「いったん国を建てると、人々はますますそれに固執し、自国と他国の区別をはっきりと意識するようになる。他国、他政府の不幸な出来事には全く痛みを感じないようになり、陰に陽に自国の利益や栄誉を主張するようになる」
「自国が衰退に向かう時、敵国に対して勝算のない場合でも、力の限りを尽くして戦う。いよいよ敗北が目前に迫った時、はじめて講和を考え、また死を決意するのは立国の正義であって,国民が国に報ずる義務である。 これが俗にいう痩我慢である。」
そして、無血で江戸城開城をさせた勝海舟は痩我慢の大義を破り、「立国のために至大至重な武士の気風を害した罪」があり、さらにちゃっかりと新政府の高官に納まった事はさらにその気風を落とす事になり許せない事だと。
つまり、国家とは人間の弱さから生まれるようなものだけれど、それを守るには身を犠牲にする覚悟を失ってはいけない、というような事かな。ちょっとズレるけど、日本には徴兵制がないからより「国」というものに対する意識が落ちてしまっているように思う。
次に「丁丑公論」ではつまり西郷隆盛を擁護するのだが、その書き出しが興味深い。
「およそ人は,自分の思い通りに物事を行ないたいと欲するものだ。それが専制の精神である。 専制は今の人類の本能と言ってもよい。個々人であってもそうなのだから、人が集まってつくった政府は専制にならざるを得ない。政府の専制はとがめる事ができない。 政府の専制はとがめることができないとはいえ、放っておくと際限がないから防がざるを得ない。今これを防ぐ方策は抵抗する事だけだ。 世界に専制が行なわれる間は抵抗の精神が必要である。それは、天地の間に火がある限りは、水が必要であるようなものである」
これは真理ですね。常に思い出して良い言葉だと思うし、やっぱり今の私たちには余りにも「抵抗」が足りなさすぎているから、こんなに「専制」に溢れていると言えます。
また西郷さんの為した事を形容して「罪を憎んで人を憎まず」というのだけど、最近聞かない言葉のようにも思うけど、すごく大切な言葉に思います。つまり、とある凶悪な犯罪があってもその彼(彼女)が生まれながらに凶悪性を持っていた訳ではなく、生まれ、育った環境が罪人を生み出してしまったわけで、たまに喩えとして思うのは、ニキビはそこに薬を塗ればそこだけは治っても、それを生み出すのは体質であり、体質を変えなければ無くならない、という事と同じで、罪人を檻に入れればそこは抑えられても次から次へと罪は起こるというのは、やはり社会全体の問題だという事を忘れないようにしないといけないし、罪をその個人に押し付けようとする傾向は益々強くなっているように感じます。
話を戻して、西郷さんは「抵抗」して「専制」側を勝ち取ったけど、その専制が行き過ぎれば新たな抵抗が必要になるし、西郷さんの反乱は、新政府が彼を追い込んで起こさせたようなものだと。
そう言えば、第二次大戦も、ABCD包囲網とやらで資源のない日本を追い込んで、客観的に見ても開戦の後押しをさせたようなものだったんじゃないか?と思うしそれとも似ている。
まあ勝てば官軍負ければ、、ですか。
色々考えさせられました。軽薄な新書なんかよりずっとずっと価値がありますね。