村野藤吾とニーチェ

  • 2011.02.25
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以前に買って写真とか見ていただけだったのですが、長谷川尭さんの前書きと、今ちょっとニーチェを読んでいたのがつながったりしたので。。
本書のサブタイトルのように、村野さんが様々な建築様式を「本歌取り」して来た事に、建築界の大きな反応は結構冷たかったのですが、大きな流れというのはつまり、過去を否定して未来を礼賛する傾向であり、それに対して村野さんは過去も未来も同列にしか考えない<現在主義者/プレゼンシスト>であったから、というのはまあ良く知られた所だとは思います。
だからこそ、本当に村野さんは様々な国や時代の建築から何かを感じ、今に生きる自分としてそれを形にした、からこそ、無節操と感じるまでも建築表現に巾があり、それがまた建築の大きな流れ(どの時代もスタイルをつくり固執しますので)から無節操だと攻撃されたりしたのですね。
前書きの一部「若き村野もまた、歴史的な蓄積の豊かな過去にも、科学技術が拓くはずの未来にも、建築の『神』『究極の美』を見いだすことなどできずに、設計者としてやむを得なく<現在>を「転成と変化」として乗り越え生きて行く、つまり後に哲学の世界で広く使われるようになった言葉でいう<実存>を引き受ける覚悟を、恐らく日本の建築界で最初に披瀝した設計者となった」
そして、それはニーチェが告知した時代の到来を引き受ける生き方であると。
まあこういう時に哲学の学問的厳密性とかつつき出しても良くないのですが、僕の中では上記の言葉はすーっと理解ができ、村野さんが一番好きな建築家だという漠然とした理由が少しはっきりしたようにも思いました。(今までそれなりに村野さんの文章などは読んでいたつもりですが、甘いなあ)
ちょうど、ニーチェの思想を持って今の自分の仕事を為すとすればいかにあるべきなんだろうか、なんて考えていた所でもありましたが、全ての物事を、過去と未来を同列に考える事ができるというのは、実は実はとても難しい事であり、でもニーチェ的に言うととても大切な所だと思いますし、そして村野さんが(建築に向き合う時には)実行されて来た事だと思います。
それはそれはとても苦難に満ちた道だからこそほとんどの人間が、そんな事が可能だとも思わずに生きているわけです。つまりどこにも拠るべきものがない、というわけですから。
そして、価値の破壊と新たな価値の創造、と続くはずなのですが、村野さんがもしその新たな価値を生んでいたとしても、それはそれきりで、また次の人間も同様に何かの価値体系に少しも拠る事なく生きてゆかなければならないのです。
何でそんなしんどい事しなければならないのかって?
大きな流れや力に拠って生きればいいじゃないかって?
それをニーチェは、荷物を背負っているという意味で「ラクダ」に喩えます。
様々な諸価値、宗教、お金なんかも全て、人間を束縛する荷物であり、そこに本来の人間の自由はないと。
実は、今の私たちの時代だって、ニーチェやそれに影響を受けた哲学者などにどこかで勇気づけられて多くの事が変わってきていると言えると思いますし、村野さんだって直接的にではないにせよ、そんな時代精神を敏感に感じた一握りの人間のひとりだったはずだと思います。