時の試練に耐えてこその
- 2019.12.25
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日経アーキテクチュアより。建築設計に携わる人間には一番と言っていいほど向き合うべき大切なことだと思います。
と敢えて言うのは、建築家と言われる人たちが「向き合って来なかった」ことをもっと反省しなければならないと思うからです。
そして、建築家たちはその反省もしないまま、なぜあの作品が壊されるのだ?と騒ぐけど結局壊されるのは、つまり時の試練に耐えようとする「意志」を設計者が込めなかったからで、それをやってきた村野さんの建築だけはこれだけ残されようとしている理由は何故なのか?そこに向き合う必要があると思うのです。そして僕が一番尊敬する建築家が村野さんだと思ってきた理由もそこにあります。(ドヤって感じですねw)
こんなことを思いながらBSをみてたら、化学と芸術を融合させる、みたいな作家さんたちが出ていて、いやいや、芸術も建築と同じで、科学となぞ融合してたらすぐに化学分解して時の試練になぞ耐えられないものになって、そもそも「芸術」でもなくなるだろ、と思ったのですが、同じ意味で、僕は世の中の「アート」は芸術だと思っていません。娯楽ですね。
そして、何故村野作品だけが?と 問うよりも、本来、お寺も教会も、時の試練に耐える事は前提条件だったはずなのに、何故、名作と言われる建築さえも簡単に壊されてしまうのか?を問うべきであって、それにはいろんな側面があると思いますが、一番思う事は、近代建築が「素材」と向き合わなかったから、だと思います。
藤森照信さんが<白派=抽象的理性的>と<赤派=具象的感性的?>に建築を分類されていましたが前者に槇さん谷口さんを入れられていたと思いますが、僕はお二人は、素材や時の試練には向き合われて来られてきたので、今後建築は残されると思っています。表現は抽象的でアルミなどの新しい素材を多用されてはいても、です。
またコルビュジェは前期が白の時代、後期が赤の時代と呼ばれて、ロンシャンのような建築に行き着きましたが、弟子だった坂倉さんの神奈川県立近代美術館は大規模に改修され延命したのが本号にもありましたが、僕はあの建築は時の試練には耐えられないし、つまり素材に向き合っていないと思っていました。
言葉を変えると、素材への「敬意」から建築を始める。石を知らなければピラミッドも神殿もできなかったし、木を知らなければお寺はできなかった。でも近代以降の技術で、素材は表面上の表現に成り下がってしまった。
そんな気持ちで、最近はずっと「杉」という素材に向き合ってきたつもりですし、なんとか図面もアップして見積もりに出したコンクリートの家でもそのつもりで設計はしました。
さて今年も終わりが見えてきましたが、工期がゆっくりになったりで今年は完成物件が少しでしたが、その分もあり来年は設計も工事も忙しくなりそうです。