日本近現代建築の歴史/日埜直彦
- 2021.04.02
- BLOG
日埜くんとは同じ研究室で、以前も書いたけどどう頑張っても勝てないや、という存在で、僕ももっともっと頑張らないとダメだと思わせ続けてくれて、ありがとうw
そして本書は、現在のカオス的な日本の都市景観を生み出してしまった150年の建築の歴史を初めて「通史」としてまとめた素晴らしく読みやすい書(一般の読者向けに書かれたそう)ですが、そのカオスを作り続けてしまっている我々建築設計者は必読だと思います。
でも佐野利器って誰?というような、初歩的な建築史も学んだこと(興味)がない人間も建築士を持って設計をしている日本の状況で、まあそれが150年の行き着いた残念な結果だと思いますが、そういう方は特に無理してでも読んで欲しいいです。
まず著者の認識としては、上記のように「カオス的」状況であり、それは「規範」が失われてしまったからだけれど、国家として西洋化こそが生きる道だとして、それまでの日本の建築文化をひっくり返して、「まだ」150年しかたっていない中で、いくつか、成熟につながりそうな建築も残されてきた、という。その一つが、やっぱりか、と思った磯崎新なのだけど、つまり彼だけはそんな激流のような日本の建築を作る場に置いて、流されなかった、つまり意思を持っていたから。意思、という言葉は本書には無かったはずだけど、もう一人本書の主役の丹下健三の弔辞での磯崎新の言葉に、<Will>には意思と遺言という意味もあり、先生はそれを我々に残された、と。その文脈での「意思」を磯崎は強く持ち続けた、と言えるのかな、と僕なりに解釈しました。
丹下は結果的には日本という国家や権力を背負いすぎて「古典的」であり、そこから強く距離をとってきた磯崎は「反古典的」そしてSANAAの21世紀美術館を論理から離れた少し透明な?人間なための建築=「非古典的」と表現して、これからの日本の建築の成熟を考えるにあたっての「突出」である、とまとめています。
本書には「分断」という言葉がとても沢山出ていて、キーワードなんだと思いますが、分断って、ある立場とそれとは違う立場があって、それが歩み寄り合う論理や場所がないから起こるんだと思いますが、それの連続だった、ということがとてもしっかりと描かれていますが、そこは是非お読みください。でも、本書のタイトルには「歴史」とありますが、歴史を学ぶことって、これからどう進んでゆくかを悩む人間が、その判断力を高めるためって言えると思いますし、著者もそれを求めていると思いますが、つまり上記の「成熟」を目指すためにこの歴史から何を学ぶべきなのでしょう?そしてその前にその成熟を僕たちはどう考えるべきなのでしょう?
著者があとがきで吐露している、建築家に対する社会からの不信感は建築家側がそれを直視せず、それがデタラメな状況を生み出し続けていることに「忸怩たる思いを噛み締めつつ本書を書いた」と。そしてそれが、彼は設計の能力ももちろん高かったけど、それほど実作を持たないことの理由なんだろうと思うし、本書は建築家と言われる言われる人たちには耳の痛い内容なのだから今まで他には誰も書けなかった、という面はあるはずだから、彼はやっぱり凄いなと思います。
そして最後に、上記のこれからの日本の成熟を僕なりにどう考えるのか?
でもやっぱりそれは上記の「分断」を無くすことでしかなし得ないと思うし、それは本書でわかりやすく書かれているようにそれぞれの立場が何故生まれ、何故分かり合えないのかを知ることからしか始まらないと思います。そして、建築に対する大切な部分を共有できないから分断があるのだとしたら、その大切な部分とは何か?
それは表現でも論理でもなく、上記の意味での「意思」だと思いますが、つまり上記の磯崎さん的な意味で、流されない強さ、というものを建築は本来持つべきなのだと思いますし、それは結果的には永く「残る」ものを志向するべきなのだとずっと思っています。
その意味で、近代建築の名作、と建築の世界で言われてきたものが建築家の反対運動にかかかわらずあっけなく壊されたり、残す価値もないような建物を無理にリノベーションとかして、それまた儚げなのに、建築雑誌に載ったり、そんなのだから、上記のように「不信」なんだよって思います。確かにつまらない建物でも残ることで記憶を紡ぎ続けるので、簡単に壊すべきではないと思いますが、その一方で100倍の数の下らない(残る価値のない)建物が量産されていることから目を背けている「建築家」という世界はやっぱり解体して建築と向き合うところからやり直すべきだと、僕は思っています。
だからこれからも、「経済」や「権威」に飲み込まれない範囲で、つまり自分が想いを込められるような内容や大きさの仕事しかやらない(その前に来ないw)つもりです。
本書を励みにこれからも頑張ります。