新建築2月
- 2017.02.03
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集合住宅特集。表紙はフジワラテッペイさんの代々木テラス。右上のがアトリエワンさんの、まちやアパートメント。そしてその両者の「脱・集合住宅」という対談が良かった。
藤原さん「北山恒さんの足洗の連結住宅のように、都市に対してしっかりした構えをモテないかと、、、構えがあると都市環境の側と他者の側との接点が生まれてくるのではないかと考えた」と。
その連結住宅も、コンクリートの強い骨があり、ガラス張りで、デザインが即物的、というか、「情緒」を排除してできているように感じるんだけど、僕は建築には情緒が必要だと思っていまして、数学者の岡潔さんが、数学は論理的なものだけどその全体性を捉えるには情緒が必要だ、みたいな事をずっと前に読んでから、そうだそうだ、論理をいくら積み重ねても良いものにはならないんだ、と信じ続けております。そして藤原さんもその師匠の隈さんや北山さんも、それは理解されないから、作品を良いと思えないんだな、と思っております。
一方の塚本、貝島さんは言論も、作品も、そんな全体性をきちんと捉えられているな、と。これも含め、「町家」シリーズを作られてますが、町家というタイプや建築言語を街とシェアすることで街に潜在的に存在する言語をあぶり出す、というのを今まで考えれてきた単に物理的に共有することによる「共ーコモン」ではない新たな「共」のあり方として目指されているというのです。つまり今までは、「私」と「公」の間に消極的に存在しているように考えれらてきたけれど、そうではなくて今でも農村や漁村で、土地や水辺をみんなで管理し利用しているように、「共を公、私の両方が依って立つ資源やそれを枯渇させずに利用する規範として位置付ける」という意味で、今よく使われる「コミニュニティ」とは異なるもので、それは都市が作られる過程で捏造?されたものだと。
集合住宅論では、集まって住む意味がよく問われますが、確かに、いかに魅了的な、そして物理的な共有空間を生み出すか、ということに終始していたと言えそうですけど、結果としてうまく生きているものは(公園も大抵そうですよね)ないので、その発想に限界があったことに確かにそろそろ気づかないといけないように思いました。結局ハードをどうしよう、という側の発想でしかなく、人間の本性に迫ってこなかったというか、そこを塚本さんたちはきちんとやられてきてますから、ディテールもデザインも、いつも質を守ってられますね。
僕は集合住宅の設計には興味を失いかけていますが、そんな風に取り組めるなら、やってみたいな、とも思います。