新建築2月号
- 2010.02.09
- BLOG
いい加減新建築やめようかな〜と思いつつ、今月もどうも共感できるところが少なく。。
「ヨコハマアパートメント」だそうですが、素材やディテールへの執着が感じられない。。
こういう一発芸的な空間構成をしていると今は流行の建築家でも、10年後は名前を聞かないでしょうね。そしてこれを表紙にするのも何故か。他に見るべき建築がない時代だからなのか。。
それより千葉学さんの小論にあった「site specificからsite determind」がより気になりました。
彫刻家ロバートアーウィンの彫刻と周辺環境との関係性についての4つの分類1)
site dominat 2)site adjusted 3)site specific 4)site determind を引き合いに、「(自然という)コントロールし得ない他者を巻き込んだ上で成り立つ合理性」によって生み出された空間が生身の人間によって使いこなされていった時、次の時代を切り開く知性を持った身体が生まれているのではないか、と結んでいます。
上記4分類を僕なりに解釈すると、1)どこの敷地でも良い建築2)その敷地に合わせてつくられた建築だけど他の敷地にも合うかもしれない3)その敷地のためにある建築4)その敷地に無くてはならない存在になってしまう建築。とそんな感じかなあ。。
そして言うまでもなく、4に近づく程、感動をもたらす存在なんだろうと思います。
でもでも、千葉さんの建築にそれが感じられないのは何故だろうか??
上記の「合理性」というのが、そもそも4には至れない発想なんじゃないかと、頑張っても3までしか至れないのではないかと思います。
3から4にジャンプするには、やっぱりそこにはもう、感性というか情念とでも言うべきものが不可欠だと思いますし、それには合理性といった客観的なものへの配慮は足かせにしかならないのかもしれないとまで思います。
千葉さんはコンペやプロポーザルは最近よく取られていますが、それはその審査基準がやはり基本的に合理性を追求するからなのだと思いますし、莫大な予算を設計者に預けるための選定なのですからそれはやむを得ない事としても、でもその選定の結果、「情念」というようなものは排除されざるを得ないのでしょうね。。
例えれば、ガウディが今の時代に生きていても、決してコンペやプロポーザルで残る事はないでしょう。
私たちが建築に何を求めるか、という前提がはっきりしない以上良いとも悪いとも言えませんが、でも、言葉を発する以上は、言葉に責任を持たなければいけないと思います。
あ〜、自分もまだまだ全然ダメだ〜