新建築1月
- 2017.01.05
- BLOG
新年おめでとうございます。少し忙しく昨日から始業しておりますが、一息つきまして。。
まず隈さんの「グローバリゼーションのあとにくる建築」という文章が(隈さんだしw)気になりまして。
グローバリゼーションの中で建築家は建築でなく「アート」をつくるアーティストでなければならない、という磯崎の予言の通りになり、でもそれは単に高いだけの役立たずだったりもして、一方で経済のためのハコモノが量産され、「嫌建築」ムードが深まった。でもそこに、阪神、東日本と大災害が起こったのは「神の声」のようであり、「建築の再生」を計るためにはその強いアート建築を「消し」、「ただ地面に足がついた建築」「ひとを繋ぐことができる建築」をつくらねばならない。と。
確かにその通り!と思うけど、だからといって建築を埋めたり、ルーバーで覆って威圧感を減らして見せる事に対する必然性があるのか?では隈さんも先頭に立って世界遺産にしようとしている代々木競技場の事は評価してはいけないのではないのか??モダニズムがいけないのではなくてなんちゃってモダニズムがいけなかったのと同様、代々木のようなシンボリックな建築がいけないのではなくてなんちゃってシンボリック(隈さんのM2は?)がいけなかっただけではないのか?
また鉄骨の表面を無理に木で覆いまくった建築が「地に足がついた」ものなのか?僕には理解ができませんが、ザハ的なものを否定するロジックに過ぎないのではないのかとも。
ま、益々売れまくっていらっしゃる隈さんですから、有名になるとこんな事書けなくなっちゃうんでしょうけど、若手有名建築家さんたちは本心どう思ってられるのだろうか??
で、表紙のは藤森さんの「モザイクタイルミュージアム」ですが、これは一体「地に足がついた」ものかどうか隈さんにお聞きしたいところですね。坪単価はバブル期の総石張り並みですが、そこはさすがの藤森さん。「アーティスト」性を入念に消しているというのか、類型化されるような見覚えのある形を排除しているからとても変わっているんだけど何故かクセがない。自身で「似た立地に似た仕上をした秋野不矩美術館では漂わなかった非在感が立上がっている」と書いているところの「非在感」この言葉に尽きますね。屋根の形とエッジの細さと上に植わった松とスケール感が分からなくなる窓のサイズや配置などがそうしているんでしょうね。でも以前から、藤森さんが建築家枠で並ぶのはズルい!と思っていましたが、つまりは報酬や責任(施主の理解がなければ難しいメンテナンスなど)の面で我々職業設計者とは異次元で設計されているからですが、でも後期の村野さんもこんな面ありましたし、ちょっとこの世界にも近づいてみたいな〜なんて思ったりもする今日この頃ですw