新建築1月
- 2015.01.05
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安藤さんの上海保利大劇場。「ある種のランドマーク性が期待されていた。それに対し、、建物外形による直接的なシンボリズムではない、その内にはらむ空間の激しさを持って存在感を示す建築を提案した」そうですが、うわーさすが中国や、めっちゃ大胆やしお金かかっとるんやろなー。というのはありますが、変なランドマーク性を殺してやったのは良かったんだろうなと思いましたし、コンセプトがきちんと実現できているように見えました。
右上のは槇さんのアガ・カーンミュージアム。アガ・カーンはイスラム系シーア・イズマイリ派の今の最高指導者らしいですが、槇さんに「光を祀るような建物」(光は人々を幸福に導くという教えがあるそう)「外はモダニズム、内はイスラムを感じさせる建築」にして欲しいと要望されたそうで、それがとてもうまくできてます。まあ随分お金がかかっているそうですが品よくまとめているのはやっぱり槇さんですね。これは実際見てみたい(カナダだしまあ無理だけど)ですね。
右下のはアトリエワン設計の、ドイツに現代の芸術家村を自力建設サマースクールのためつくられたメインホール。3年程度は維持される予定らしいけど、仮設建築で、本号に「非施設型空間とネットワーク-ふるまいを解放する建築」という文も書いていますが逆に施設型、というのは20世紀に大量に作られた紋切り型の建築という事で、人間のふるまいもある種紋切り型にさせられてしまう、という意味での「解放」。安藤さん槇さんの「立派な」作品も表現では自由ではあってもやっぱり施設型なのかな。もちろんそうあるべき建築もあるし、「解放」する建築もあるべき。
そういえば昨年末、坂茂さんの講演を聞きましたが、すごくお金がかかってすごく美しい建築と、一方で紙管など仮設で余り美しいとかいう価値軸でないものとすごい巾でずっと仕事をされて来たのを、何故だろう?と思っていたのですが、きっと建築は人間を解放させるためにある、というのが根っこにあるから、お金があればできるだけ活用してとても美しい建築を作ることでそれを見る人々の心を解放させるし、極貧な地域や被災地であれば、まずは最低限のシェルターをできるだけ早く沢山供給して身体を苦から解放しつつ、できる限りのデザインも盛り込む、という事でその極端な両者が坂さんお中では地続きなだけで、でも普通建築家大先生は前者をするのだけが仕事だと思っている、という事じゃないかと思いました。
でもいくら美しくてもお金をかけすぎる事で、例えば住宅だって、公共施設にしたって、自らの首を絞める事になるわけだし、ローンに追われたり自治体だって破綻もするわけだし、そうなっても作家ぶっているのはやっぱりダメなんだと思います。
かと言って仮設的なものやローコストだからといって軽いデザインで良しとする、というのも結局長持ちしなかったり良いと思えなかったらそれはそれでダメだと。
良いものが安くできればいいし、できる限りそれを目指して来たつもりですが、最近建設物価も上昇中で悩みが尽きませんねえ^^;