新国立競技場の迷走のわけ
- 2015.07.18
- BLOG
一昨日7/16に安藤さんの記者会見が行われ、昨日に白紙撤回とデザインコンペからやり直しとの発表がありましたね。
僕も理解が十分ではないですが、とりあえずあのまま突き進まなくて良かったと思う反面、やり直しても問題の根本を反省していない限り良い結果にはならないのではないかと危惧しています。
その問題の根本、とは何だったのか、自分なりに。
応募資格が厳しいとの批判は沢山あったようですが、それ以前に、安藤さんの会見で強調されたように、審査委員はデザイン案を選ぶまでの責任しかなく、そのデザイン案を出した(今回ではザハ)も実施設計まで関わる事ができず、という責任が分断された仕組みにまず問題があったように思います。通常(こんな大きく特殊な建築でなければ)コンペで選ばれた設計者が実施設計や工事監理を含め最後まで関わる事を通じて、デザインの本当に重要な骨組みから、細かな部分までコントロールしつつも予算との擦り合わせを主体的に行う事ができますし、小さい仕事ながらも僕自身もそれを行う事によって、限られた予算の中で最大限の価値を生み出す事ができると信じていますが、つまり案を出した人、案を選んだ人、その案を現実的にしてゆく人、がバラバラなんですから、まあいろんな無駄が出るに決まっていますし、工期が限られたとても特殊な工事ですから、現状でゼネコンに値段を聞いても高く出されるに決まっています。
つまりその仕組み自体に大きな問題があっただろうという事はきちんと把握した上でやり直すべきだと思います。
先日の安藤さんの会見、無責任だ!という論調が強いように思いますが、実際映像で見ていましたけれど、僕は安藤さんの立場、つまり上記のように案を選ぶまでしか責任も権利も与えられていない立場ならやむを得ない部分が大きかったと思います。ただ、それを言うならもっと早く言うべきだったし混乱も少なく済んだのではとは思いました。
また以前、磯崎さんが言われたように、案自体ではなく、ザハという建築家を選んだのでもあるから、敷地や建設コストに対する前提が変わったのであればそれを含めて新たな案をザハに出させるべきだ、というのが実際は一番正しい道なのだと思いますが、そのためには、上記のような、デザイン案を出すまでの役割ではなく、実施設計やコスト管理も含めた責任と権限を、そもそも選ばれた設計者に持たせる仕組みでなかったら、やっぱり案は出すけど、いくらになるかは責任は持てない、とならざるを得ないですよね。
僕も日々の設計の中で、実現したい事とコストの板挟みで辛い気持になる事も多いのですが、その板挟みと辛い気持を何とか乗り越えるからこそ良い結果になると信じるから頑張る事ができるので、このコンペは責任が分断されているから、誰もその板挟みに合わず、最後税金を投入して国民がその犠牲者になるという仕組みなんだからこうなってしまったのも必然性があると言えます。
安保法案や原発の再稼働など、僕らの子孫に禍根を残しかねないような事が立続けに動きつつあるのでさすがにSNSなどでも国民が声を上げ出してそれが多少なりとも政治に影響を与え始めたのは良い事だと思う一方で、本当にあるべき姿とは?という議論抜きに感情論で反対の声が膨れ上がったりしている面が強いことに不安を感じたりもしますが、そのためには、以前も書きましたが、宮台真司さんが某社会学者が掲げた概念としての「ミドルマン」が必要だと言っていて僕もそれが鍵だと思うのですが、つまり社会がとても複雑に専門的に細分化されてしまってきた中で、それぞれの道の専門家が間に立って分かり易く説明したり意見を述べる事によって、国民の意志をあるべき方向に導く事が必要なんだと思います。だからこの新国立競技場の問題は建築のプロのひとりとして僕なりに意見はしなければいけないと思っているのですが、ただ安保と原発については実はそんなミドルマン的な存在が居ないというかむしろ専門家が立場の偏った意見をする事によって国民をより不安にさせてしまっているのではないかと感じています。
そこで思うのは、前からの持論ですが、国会議員はもちろんのこと、地方議員がもっと勉強してその役割を担うべきではないのか?と。
まず市議さんなら市の政策の難しい所を市民に分かり易く伝えるのは義務(それさえも大してしてないのでは?)だと思いますが、国の政策だから関係ないと思っているでしょうけれど僕らが国会議員と接するはなかなか出来ませんから、是非もっと勉強して発信して頂きたいものですし、安保や原発問題について持論を語れない方はやっぱり市議として選ばれるべきじゃないんだと思いますし、市民が安保や原発について発言をしたり活動をしていたら、それを支えて、声を集め、国にぶつけるような役割も是非担って頂きたいと思います。
もちろん市議さんにだけ求めるんじゃないですよ。医師であれば医師の、食を扱う方であれば食についての、もちろん建築も、プロとしての自覚と責任をもちながら、身近な人たちに対してミドルマンとしての役割を果たしてゆく事で、メディアに流されずに本当に大切なものを見つけて幸せに生きてゆけるのだと思っていますし、専門家が言いにくい事けど本当に大切な事を言わない世の中や、当たり障りのない楽しげな話題ばかりが溢れて、本当にヤバい大きな問題がどんどん膨れ上がるような世の中が続いたら、いつか破滅しかないですよね。
安倍政権はある種化け物のような、つまり僕らの未来や平和を脅かす存在のように感じられることが増えて来たようにも思いますが、安倍さんや安倍政権も、僕ら日本人から生れ出て来たものですから、性格の一部みたいなものですから、頭から否定しても反動が出てしまうだけじゃないかと思いますし、つまりなんで安倍政権のようなものが生まれたのか?というと、それは今までの政治家も悪いけれど、国民が余りに無関心だったからじゃないかと思っています。今まで関心もなく知ろうともして来なかったのに、急に感情的に反対だ反対だと言ったって、今までの歴史的経緯や今後の国の安定はどうやって計るのだ?という気持が強行採決やいつのまにか再稼働につながっているように思いますし、だから国民も今の感情的な言葉じゃなく、今後に対する責任も伴った(つまり歴史や経済的な事も含め)努力を続けます!ときちんと宣言しなければ、所詮子供がわめいている、程度にしか思われていないのが現状なんだろうなと思います。僕が安倍さんならきっとそう思いますし、もし保険会社のトップなら、必要もない保険をあたかも必要なように、いざ何かあっても約款で余り払わないで良いような商品をつくりたいですよね?ヒドい話ですがどの業界でも組織が大きくなって組織を存立させる事が最大の目的となってしまえば同じだし、その気持を想像してみれば、こんなもん買わないよ、って思えるものだらけなんだと思います。
話しがバラバラになりましたね。。