家普請

  • 2011.10.31
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最近Facebookつながりで、日本ではすぐに価値のない中古住宅になってしまうのに今の家賃並みの返済で済むからと、安かろう悪かろう住宅に生涯賃金を安易に捧げてしまうのか?みたいな話を聞き、我らが<はままつクリエイティ部>で企画をしようと、とりあえず骨子を考える事になりまして、、頭の整理を兼ねてここに書きつらねます。
まず冷静に考えれば分かりますが、食事だってとりあえず目につくお店に入ってしまうより、情報を集めたり色々行ってみて初めて自分のお気に入りのお店が見つかるのと同様、もっと恐ろしく沢山の金額を使って、恐ろしい数の(本来はあるのです)選択肢の中から選んで家をつくり、結果満足するためには苦労が少ないわけがなく、目についた程度で選んだ結果はその程度で終るのだと思います。
今日も初めてお会いしたクライアントとお話していて、やはり我々に「敷居の高さ」を感じた(会ってみれば違う)とお聞きして改めて感じたのは、僕たちが普通なだけで、周りの業者たちが売らんがために敷居を下げているだけなのかな?つまりはこんな良い住宅を真面目につくろうとしたら敷居が高くて当たり前なんじゃないかな?と思いました。
ところで今は死語化してますがしばらく前まで家をつくることを普請と言い、その意味は(あまねく)請う(こう)という読みの通り、広く平等に奉仕(資金・労力・資金の提供)を願う事だそうで、地域に居る大工や様々な職人たちの協力のもとに、今のように工務店などに一括でお願いして出来てしまうようなものではなく、それぞれの職人たちに実費を直接支払うようなやり方だったので、今のような宣伝広告や営業費なんてものは一切かからなかったし、ハウスメーカーのような大きな会社なんてなかったわけです。つまり自動車が大きな会社でないと採算が合わないのとは逆に、大きな会社であるほどに下手な経費がかかり、売る事存在意義のような状況になってしまっているのだと思います。
ただ確かに大量生産をしてコストダウンや性能の向上が計られているのはある程度認めますがそれ以上に様々な経費がかかっているだけの話で、でも大きな会社が結局政治力も持ち、そのやり方が社会のベースをつくってしまってきて、小さな工務店も同じ価値観で売らなければ売れないという業界に変わってしまった、という事だと思います。
つまり、家族の幸福のためにつくられるべき住宅が、企業の存続のために売られていて、そのためには「食通」のような「住通」がいてもらっては売りにくいので判断力を持たせないように「思考停止」をさせて、組めるローンの中で、見慣れた住宅が建てられればそれがあなたの「ゴール」ですよと洗脳させられている、という事ですね。
その洗脳状況から抜け出す方法は、「売る側=つくる側」の理論に染まっていない「住む側」の理論、つまり本当に日々、そして一生楽しく暮らせる住宅というのが本当にあり、それはあなたにも可能なんですよ、という事を知る事しかなく、設計事務所にはそれが出来るのです。が「出来る」と書いたのは中には「つくる側」からお金をもらって頭が上がらないという仕事をしている方が、というかその方が寧ろ多いのが実情なので話は簡単ではないのですが。。
もちろん万人が美食家であるはずがないのと同じく、もっと割り切って住まいをつくるのは自由だとは思いますが、でも一昔前の各家庭で素朴な手料理をつくっていた時代というのは実はなかなか四季それぞれに美味しいものを食べていたんじゃないかなと、何が言いたいかと言うと、素朴だけど質の高い住宅というのは万人に必要とされるんじゃないかなと思いますし、それは実は簡単におばあちゃんの味が出ない(大食品会社が頑張っても)のと同様に長年の経験やら知識が積み重なってこそできるものだと思います。ハウスメーカーには不可能だという事です。
続きがあるかもしれませんが、長いと飽きるのでこの辺で。