地鎮祭でした
- 2009.11.23
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今朝、地鎮祭があり、天気予報に反して晴天だったのは、奥さんが晴れ女だったからだそうです(笑)
ご祈祷は以前庫裏を設計させて頂いた、磐田の三仭坊さんにお願いしたのですが、多くの場合の地鎮祭が結構淡白(その代わり施主側は楽ですが)で、地鎮祭のそれぞれの意味とかもそんなに聞かされる事が無いのに対して、三仭坊さんはいろいろお話もしてくださるので、単なる儀式ではなく、実感として一緒に地鎮祭を行うような感じになるのが、僕は良いと思っています。
まあそもそも、地鎮祭もそうですが、お祓いをしたり、家相を気にしたり、その他様々な儀式を行うのでしょうか??と素朴に思うのですが、何故でしょう??
まずはそれぞれ皆さんが考えて欲しいな〜〜と思うのですが。。
結局僕は僕の考えを書いてしまうのですが(笑)
それは、人間は今だけでなく、将来いつまでも、自分たち人間自身の事も、もちろんそして森羅万象の事も、本質的な部分では何も分かる事ができず、つまり月明かりもない砂漠に一人さまよう人のように(いくら今の人間の知識でも小さなライトを手にしている程度!)、不安だらけな訳です。
だから、不安を何らかの形で払いたい。というのは人間の本質的な部分と言えるので、だから、きっといつまでも、そういった儀式(宗教も)は無くならないし、無くす事はできないんだと思います。
でも、現代社会は、科学技術、というある種の宗教のもとに、そんな不安を忘れさせようとしていますが、でもそれは実は新たな不安を増幅させているという事に、僕たちは気づかないように調教されている、というのが、また恐ろしいですね〜〜。
数日前に、夏目漱石の「こころ」の映画のDVDを見たのですが、こころ、は中学時代に読書感想文で読んで以来、決して深い意味が分からないままにずっと心のどこかにひっかかっていました。
文学の世界での解釈は知らないし興味も余りないですが、僕なりには、自分の内面を真面目に見つめようとすればするほど、不安や恐怖、そして自分が生きている事を否定するしかない心境になってしまうのが、人間の本質なんだと感じています。
決して太宰治や三島由紀夫のようになる必要はないけれど、でもなんであんな生き方をしたのかは、少し理解すべきなんだろうなあと。。つまり、死から目を背け、物欲に目をくらまされている限り、だぶんきっと、もっと大きな心の不安を抱えさせられているんじゃないかと。
あ〜重たい(笑)