地球爆破作戦
- 2010.12.04
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ツタヤで何となく借りたのですが、結構有名なんですね。僕は決して映画に詳しくなく。。でも面白かった。
冷戦時のアメリカで国防ミサイルの要として導入されたスーパーコンピュータ「コロッサス」がソビエトの同様な「ガーディアン」の存在を知り、コロッサスの要望で回線をつないぎ交信させてしまったがためにどんどん自己進化するかれらに人間が支配されそうになる。という良く聞くようなストーリー。
1971(私が生まれた)年公開でその後に大きな影響を与えたそうですから、聞いたような、というのは当然なのか。
見ていて考えたのは、「情報処理」という言葉と「判断」という言葉の間の大きな溝が本来あると思うけれど、それを無視しているから成り立つストーリーだったのかなと。
また引き合いに出す先日読んだ「知覚は幻」でも、人間は判断能力を高めるために情報処理を簡素化しているわけで、逆に全ての情報を等価に数だけ受入れていたら、多分何も判断ができないのではないかと。
先日のコメントでtrsgrさんが『が磯崎新さんが「インプットとアウトプットがひどく狂っている、ひどくファジーなコンピュータなんです、私は」とおっしゃっていましたが。どれほどすばらしい狂いかたなのか』と書いて頂いてましたが、その話、最初ピンと来なかったですが、上記の話の流れで、磯崎さんなんかは恐ろしい情報量なので、ファジーな、というか良くわからんフィルターを通してアウトプットしなければ情報に振り回されただけになってしまうので、そこには自分でも良く理解できないようなブラックボックスな所がなければ創造なんてできない、という風に読みました。
僕は人間が人間がつくったモノに支配される事はないと信じていますが、でもそんな意味で、情報に振り回されて自分を見失ってしまっている事についてはもっと考えるべきなんだろうな、と思います。