反戦後論/浜崎洋介

  • 2017.06.20
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書評で初めて知ったが、現代の小林秀雄だ、みたいな事を書いてあったので小林秀雄ファンとして買ってしまいましたが、まだ40前で若いようだけど、そういえば小林秀雄も若い時から抜きん出ていたようですね。

いわゆる文芸批評家、のようですが、僕も詳しくはないし、「批評」という言葉自体、正しく解釈されているように思えないし、その言葉の重さを知ろうと思えば小林秀雄を読むべきなのかもしれない。また、そんな重たい言葉の意味での「批評家」なんて建築も含め、どの分野でもほとんどいないのではないだろうか?そしてそんな状況への違和感からこのような文章たちを書いて来ているようですが、その原点は彼がニュータウンで育ち、一時は例の「酒鬼薔薇」事件の近くで、彼と近い心境を抱えていたようですが、僕も区画整理された無特徴な場所で育ちましたが、その「根=ルーツ」の無い環境や物の考え方、というのが近代以降の特徴と言えるし、その漂ったような曖昧な状況を乗り越えたくて、「戦後よ、さよなら」と言っているのだと思います。

また本書で小林秀雄の「考へるという事」というエッセイを引いて『「考へる」という原義を次のように注釈していました。それは意味のない「か」という強調音に「むかふ」(身+交ふ)という言葉が接してできているものなのだと。つまり「考へる」こと自体が、まず自らの身をもって目の前にある物や他者と交わり、それと親身に付き合うという事」と言っていますが、つまり近代以降は「考へ」て来なかったし、「考へ」た数少ない文学者たち、本書で取り上げられる三島由紀夫などは、政治や文学や世界に対して本気で「むかう」事をして来たし、それが高じて三島は命を絶ったのだと。
最後に「天皇」に関して、「今現在において浮動する「日本国民の総意」にその正当性を求める「象徴天皇制」というものは、間違いなく前代未聞の戦後的現象であり、その限りで「象徴天皇制」の伝統を云々する事自体が、私にとってはナンセンス以上のものではありえない」と。。。確かに私たちは「考へ」真剣に向き合う事なくとりあえず決まった事を是認して来ただけですから、それは憲法も同じですが、今の良い機会に真剣に向き合い、本当の意味で考えなければ、著者の言うように「戦後のツケを、いつか日本人自身が払わされることになる」のだと思います。そしてそれを防ぐには、政治が云々言う前に、全ての国民が、生きている事に真剣に向き合う事、から始めるしかないし、著者も言うように、昔は今よりずっとそうだったようだから、できないことではなく、今の世の中の構造(資本主義社会など)が私たちに、真剣に何かに向き合う事をさせないようにしているのだから、まずその構造をしっかり自覚するところから始めるしかないのかな、と思います。