利休形

  • 2009.06.30
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書店で、「美しい〜〜〜」とつい買ってしまいました。
利休好み、という言葉は良く聞きますが、利休形、とは利休が寸法書や切型を与えて作らせたものという、利休の好みが具体的な形で現れたものという意味で使われているようです。
まあ、講釈はいろいろあれど、ただ美しい、という事で十分だと思わせるのは本当にすごいですね。
現代のデザイナーと言われる方たちも、多分皆、利休型を最高到達点の一つに考えていると思いますが、でも、足下にも及んでいない事が多いというのは何故なんだろう?(失礼)
僕は、「作為のなさ」というのが大きいと思います。
今のデザイナーは、やはり売れるためにある種の「作為」を込めざるを得ない。だからちょっと鬱陶しいデザインにならざるを得ないのに対し、利休型はずっとずっと使って、触れて、眺めていても飽きないような、無心にさせるようなところがあるように思います。
ちょっと、僕がハンスウェグナーさんの家具に感じているのと近い感性があるようにも思います。
でも、なぜ茶の湯の世界に、これだけの深い世界が完成したのかというのは、利休という人間の存在は大きいのは言うまでもないにしても、やはり、言われているように、茶の湯というのが、当時の権力の象徴だったり、政治の場であったり、そして、茶道具というのが、政治的な駆け引きの贈答道具として使われたりで、特別な地位を持っていたからこそだと言えます。
そして、これは日本のとても大切な文化だと思うので、茶道という世界に閉じ込めておかないで、もっと日常生活の中で感じられるような地位を再度与えられて欲しいと願います。
美しい道具は、使う人間の心を清らかにしてくれますので。