先祖の話/柳田國男
- 2024.09.23
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1945年終戦間際に書かれたそう。
戦争で若い命が散ってゆく中、日本人の本来の死生観を問いたかったのか。
「本来の」つまり今お寺にある墓石なんて明治くらいからできたようだし、つまり日本において仏教は人の死を扱う存在ではなく、「先祖信仰」的な風習が連綿と受け継がれ、それが「お盆」などの風習となってわずかに残っている。
日本は稲作の国であり先祖代々土地や水源を守りながら「家」が続き、先祖は「守り神」のような存在として、不作や不幸を寄せ付けないために毎年、家に帰り一族で迎えた。
そして死者の「魂」は最初は個人として弔われつつ、しばらくすると、大きな霊の塊?のようなものに吸収されつつ、近くの山などにずっとすみ続けた。
つまり個人としての魂が残るのではないので「死後の世界」が良い悪いを心配する必要もなく(既存の宗教とは全く違う)、自分も同じ一族の一員としていつかその「先祖」の中に溶けてゆく、というような。
そんな死生観があったからだろうか、武士は切腹したり、特攻隊で外国人を驚嘆させるような民族であったのだろう。
逆に言えば西洋的な「個人」をという意識が希薄だったので、日本という国は全体としてはとてもうまく行っていたのだろう。
ご存知のように柳田さんは偉大な民俗学者だけど、前回の「悲しい熱帯」同様、そこに残る風習などを隈なく調べ続けたところで何か「正解」があるわけでもなくおそらく仏教界はこんなものが国民に理解されてしまったら葬式やお墓で稼げなくなるので圧力がある話だと思う。そしてざっと読んだ僕がまとめた話なので、差し引いてお読みください。でも何度も書くけど葬式仏教には何の価値も根拠もないと思う。
私事だけど昨年母を亡くし、父も先が長くないだろうなかで、兄と妹と、その後の話をしたり自分なりに考えてきていたこともあり本書が引っかかったのだけど、政治家は宗教には口は出せない建前にしてもこのままだとお寺も墓も荒れ果て、「死ぬ」ということにより向き合えなくなることは、生きる事へ向き合えないことにもなり、医療に頼って無理やりいきながらえさせているような社会にもつながっているとしたら、大問題なのだ。
ただもちろん代々続く職業でもない限り、上記のような先祖観にはなり得ないと思うけど、柳田さんも書かれているように血縁でなかろうが死者を先祖のように弔う気持ちが必要だし、高市さんが引用した「私達が生きている今、それは誰かが命懸けで守ろうとした未来だった」のだ。
つまり日本は「先祖」が自分を守り、自分のその先祖に入ってゆくことで、「家」を保ち続けたけど、今はそれには頼れず、もう少し大きな世界で自分達を守り、そして自分達もいつかその「先祖」となって見守ってゆく、という意味での「愛国」が必要だとは思う。決して外国と敵対したり、という話は一切抜きにして。
そのためにも柳田さんも何度も書かれていたように、先達の残したものが消え失せる前にできる限り知っておく必要があるし、次の代がより良い世界になるように伝えられることは伝えてゆく。僕らはそのために生きているだけだ、ということを幸せに感じられるような日本を取り戻せたら良いなあ。
もちろん社会も世界も大きく変わったので単純ではないけど、ただ「自己中」を少し抑える気持ちを、自分にも言い聞かせて、持つようにしよう。