住宅・ 建築・設計
- 2023.07.10
- BLOG
僕は「住宅」も「建築」であると思っている。
まず伊東忠太がarchitecture の訳語として、工学ではなく「総合芸術」としての属性を表す語として「建築」という訳語がふさわしいとした意味において、単なる「建物-building」とは違い、世間で作り続けられているもののほとんどは「建物」でしかない。また「総合芸術」の意味するところは単なる「芸術作品」ではなく工学的側面もしっかり含んだものであるので、建築家の自己満足的な作品を「建築」と呼ぶのも相応しくないとも言える。さらに超高層含めた巨大な建物は設計者も含め誰も全体を把握し、まとめることはできないので、これも建築にはなり得ない巨大な建設物である。
建築は、芸術、工学だけでなく、哲学など人間や社会に対する思想的な面も兼ね備えて「総合」できる能力を持たなければならないし、世の中は加速度的に変化を続ける中、建築は少なくとも数十年という先を見据えて作られなければならないから、読んだり考えたりという訓練を続けなければいけない。そして総合的に判断、決断できる能力=思想が不可欠で、それは単に「製品」として優れたものであることを超えて、時の試練や淘汰に耐え抜く進化論的な何かだと思う。
優れた製品であればAI/人工知能はそれをより良く実現できそうだし、おそらく平均点、という意味では人間を超えてゆくのだろう。でも最後に必要なのは経験に裏付けられた感性=美意識というか、遠い未来に遠投するようなあり方だけが残るのでははないか。そしてそれは、使用者が人間である限り、その人間が進化の過程で身につけてきた「感性」が最終的な判断をすることになるから、それを一番に信じて作るべきだと思う。単純に言えば、何を「美しい」と感じるか??けど視覚情報に溢れる現代では右脳の感性は働かなくされてしまっている。
と偉そうに書いてきたけど自分がそれを実現できているとは思っていないし、哲学における「無知の知」のように、自分はまだまだ足りないと自覚しているだけマシだと思っている。
住宅を作るにもそんな美意識が必要だと思っているし、それは歴史から未来という視野を持ちながら、設計という作業の隅々にまで行き渡らせなければいけないので、「住宅」しか作れない会社やハウスメーカーの設計担当、が実現できるはずがないのだ。もちろん選ぶ側がそれで良いのなら否定すべき対象ではないとも言えるけど、「無知の知」などどこ吹く風、設計側の不勉強で世の中を悪くしているなら否定されるべきものだとも思う。
建築設計とは何か?今までの日本では「施工」に隷属し、頭が上がらない存在であったために、本来の「質を高める」という使命を果たしてこれなかったと言える。
設計施工を全否定するわけじゃないけど、やっぱり上記の意味での「建築」を実現するためには設計は独立していなければ無理だ。かと言って、建築家の世界ではメディア映えする一発芸的「作品」がもてはやされていて上記の通りそれは建築、とは呼びたくない。またそれは若いうちの方が勢いでできてしまうのだろうし、建築家も流行り廃りの使い捨てになってしまうと思うから、僕はそれには近付かず、「老練」を目指してゆこうと思うし、建築を志す若い世代にも、「映え」ない建築を地道に作る本当の大切さを少しでも伝えてゆけたらと思う。