仏教/空海/梅原猛
- 2019.05.28
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仏教的なるものに対する興味は年々増してきて、梅原さんの書が何しろ肌に合うのかとても楽しく読み、いろいろな事が頭の中で整理されてきました。
僕も含め、日本人は無宗教だと思ったりしていますが、何かあれば神社やお寺に行ったり、お祓いをしてもらうんだからやっぱり無宗教ではなく、ただ神道と仏教が曖昧に混ざり合った状態で、キリスト教やイスラム教などのように強い「神」的なものを持っていないからそう思うのだと思います。そして仏教はもともと稲作圏で始まり、稲作には大量の水が必要で、水は森林がなければ蓄えられず、雨は人間の自由にならないから「雨乞い」として自然の神にお願いをする、という発想になるために人間はむしろ自然より下の存在であると感じられるのですが、一方のキリスト教イスラム教は、小麦の農耕牧畜圏で、雨はあまり必要なく、むしろ森林が邪魔なので、メソポタミア文明を作ったシュメール人のギルガメッシュ叙事詩に「森の神フンババの殺害」が記されていて、つまりは自然は人間に従属するもの、と考えられた。という大きな自然観の違いがあって、それは間違いなく今でも続いているはずだから、鳥と魚が同じ価値判断ができないのと同じく、私たちもその違いを認識した上で世界と付き合って行かなければならない(ここは僕の考え)んだろうなと改めて思いました。
そして西洋の聖者、キリストやアリストテレスは殺害され、キリスト教にはどこか怒りの思想があるけれど、釈迦は安らかに死んでゆき、仏教には安らかさがある。そして生きとし生けるものに対する平等な見方がある。梅原さんは聖徳太子の「和」がそんな平等観にあり、それは大変大切な事だと言っていて、1万円札が福沢諭吉に変わった時反対しようとしたら大蔵大臣が止めに来たそう。でも福沢さんが唱えた「脱亜入欧」はつまり不平等の思想に踏み入ることになるのだし、結果、国は強くなったけれど大切なものを失ったとも言える。
ところでまたお札が刷新されるようで、1万円は「日本の資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一。いやあ〜これはさらに聖徳太子から遠ざかりますので梅原さんが生きておられたら憤慨されたでしょう(上記の大蔵大臣からはそのうち5万円札を出すときに聖徳太子にすると言われたそうだ)
そして先日も登場した空海ですが、さらに詳しく。
梅原さんは難しい話をできるだけわかりやすく伝える主義だそうですが、それでもまあ難しいのですが、ざっくりまとめちゃうと、仏教は上記のように「平等」なのだけど宗派によってそれに差があり、釈迦を神のように扱うことで一神教に近くなってしまったり厳しい修行をしたり妻帯を禁じることで誰でもが到達できないものを目標としたりしているのはダメだ、というのが空海の考え方で、また「極楽浄土」という幸せが死後にしか行けないのはおかしなことで、現世に生きる、煩悩も持った私たちを否定することなく「肯定」することで、「この身そのままで仏になる」ことができるし、人間に限らず動植物や世界の全ての内に仏(大日如来)が宿っている。
で、奈良や鎌倉の大仏様は大日如来であり、なぜあんな大きいのか?と言われれば不思議ですよね。でも大日如来というのは宇宙の根源のような存在で、釈迦でさえもその一つの現れに過ぎないそうで、だから宇宙の全てを照らす存在として大日如来があり、また、至る所に大日如来が宿っている、という事のようだけど、つまりは宇宙を作る「根本原理」のような。例えば「重力」という根本原理があるから恒星は最後は潰れてブラックホールになったりするし、原子レベルでも働いているわけで、そういう目に見えない大きな力、と考えれば良いのかもしれません。
キリスト教もでしょうけど仏教もかなり「教条主義化」してしまっていると思いますが、結局それによって救われる強者と救われない弱者が生まれるし、「平等」から遠ざかる。
空海は若い頃、深い山奥にしばらくこもっていたそうですが、きっとそこで「生きとし生けるもの」の平等さを見つけたのかな、と思いましたし、梅原さんが共感する、「世界肯定の思想」というものに僕もまだ読みかじっただけですが共感したので、今後も空海を追いかけてみようと思います。
最後に、でも、「密教」って名前からそうですが「怪しいもの」括りをされてしまってますが、そのほかの仏教は「顕教」と言われるようですが、キリスト教の聖書と同じで、どこどこに何が書いてあるから、という明白な教えに基づくからで、でも宗教って目に見えない大切なものを追いかけるものですよね?という意味では「密」に本来決まっているんでしょうけれど、福沢さんの「入欧」の過程の中で「密」なるものが排除されて来た、という事なんだと思います。
まあ深い世界なので、深くご理解されてる方に読まれたら叱られるような文章ですが。まあ。