仏教が好き 河合隼雄 中沢新一

  • 2024.09.02
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またか?ですがとても良い本。宗教全般、心理学、広い世界の中で仏教を位置付けてくれているのでとても勉強になった。
具体的な内容はご興味あればお読みいただくとして、お二人のやり取りから宗教というものの大きな理解がしやすく、それを僕なりにまとめてみた。
「宗教」という言葉を使うとその時点で拒否反応もあると思うけど、「私たち人間を無意識に突き動かしている力」と言えると思うし、それは宗教に限らない。でも、古来、それをそれぞれの文化が神や自然観として育んだ結果で、現代ではそれが「貨幣」となっているように思うので、そのつながりを考える必要があるように思う。

まずキリスト教について。神が作られた人間というのは結局選ばれし者でもあり、動物や自然をコントロールする側にある、という意味での「非対称性」。
その考え方によって「個人」という意識と自然を観察し支配するという意識から自然科学が生まれ、それが世界を席巻して今に至っている。
その構図は貨幣経済においては「金」が神となり自然や人間でさえもその道具に落ちざるを得ない。だからこのようなストレス社会になっているのでは??
イスラム教は僕は良く理解できていないけど人間と自然に関してはキリスト教のような上下の非対称性はなく、もっと大切にされるべきものである一方、神は圧倒的な存在である。でも、その神は仏教の求める「真如(真理的な」ものと近い面もあるらしい。
そして仏教について(原)とつけたのは所謂原始仏教では決してなく、中沢さんがあとがきで強調しているように仏教の祖先、というか、つまり決して今残っている葬式仏教などとは違う、エッセンスとしての本来の仏教という意味。そこには上下の非対称性はなく、そこでは神仏、人間、自然がそれぞれに「存在」があるというあり方でなく、アニミズム的世界の中にある。そしてそれは「空」でありハイデガーが追い求めた「存在」も結局「中空」構造の空の部分であった、という意味で同義ではないか?と。

仏教は奥が深いし、今の仏教はほとんど本質は失っているからそこは壊して欲しいけど、貨幣社会、というのは誰もが逃れられず、当たり前の世界として受け入れている。でも個人の心の問題から、大きな社会の問題から、それが引き起こしている事がとても沢山あって、せめてその原因や構造を各自が理解しておく事で生きてゆくのも「楽」になるように思う。
一部の人間が恐ろしく儲けたり、真面目にコツコツ働いても生きるのが精一杯だったり、結局お金によって「格差」という非対称性が生まれてしまっているのも、貨幣経済をもたらしたキリスト教が我々に押し付けた個人主義と自然科学による結果だということ。誰かと違う自分でいなければいけないのか?便利だからと新しい技術がどんどん商品になりそれに追われて生きてゆくのが幸せなのか?
他方仏教はそれと正反対な教えによって、煩悩の苦しみから離れた生き方を目指してきていて、今更社会の大きな仕組みを変えることなんてできなくても、目先の自分の仕事やお金というものにどう向き合うか?については学ぶべきことが沢山あると思う。

確かに食べるものに苦しむほどの貧困からは逃れるべきとしても、有り余るお金が、放っておいても集まってくるような大金持ちが幸せなんだろうか?
外見で人を判断すると内面が見えなくなるのと同じようにお金を持っている量で人が集まったり去ったりしてゆき、自分の内面を磨こうと思えなくなるような人生は、僕は結果不幸だと思う。(もちろん大金持ちでも内面を磨いてる方もいるとは思うが)

僕の理解では仏教の目指す真如は、自分達の外にどこかに確固としてあるものではなく、個々の内面を深く掘り下げていった先に見えるものだし、それは僕らも宇宙から生まれた宇宙の一部なのだから当然でもあると思う。そしてキリスト教的な確固とした自分があり、対象としての自然がある、というような思考回路では決して至ることができない。

と、こんなもの誰も読んでくれないと思うけど、自分の理解を少しずつでも前進させるためのメモ、でした。。