今年の終わりに。
- 2007.12.31
- BLOG
今年はいろいろあった年でした。
言い訳は嫌いだし、1%でも自分に落ち度があればやはり自らを責めなければいけない。
そしてどんな状況でも、常に目標を見失わずに一歩づつ登ってゆきたいと。
でも結局は僕という人間は、建築という天職を追求することで、僕であり。
建築というのは、人間の、人間による、人間のための(リンカーンのオリジナルではないようです)ものだから、建設行為によって、なんとなく人間が抑圧を逆に受けて、精神的な解放が感じられないところは、なんとかしなければ、建築をやる資格がないと思っています。
そのためにはやはり「思想」なくしては、その人間の本質に迫ることも、人間の精神を解放することもできないと思います。が、余り難しくならないようにします(^_^;)
前にも少し書いたけど人間の「強さ」と「弱さ」ということを、ずっと前から考えていて、それは動物的な弱肉強食という意味ではなく、人間が人間という存在になったときに、言語や道具といったものに頼ることによって、身体が弱くなったという事や、本能というのが解放されたというか、壊れたというか、つまり不安定な精神状況になったという「弱さ」、一方では様々な分か文明を生み出したことや、宇宙や生物、またもちろん人間という存在を究明し、究明された知識によって、自らの存在を「相対化」してきたという意味での「強さ」。
その人間が持つ2面性にもっと自覚的にならないといけないと思うのと、建築のデザインの中にも、その強さと弱さ(無意識的にであれ)を反映したものが出ているということを感じます。
ブログで触れて来たような、青木さんやSANAAといった建築家は、もちろんとても自覚的にその「強さ」の中で、建築の新しい可能性を解放してきていますし、一方では民家的なものや盲目的に自然素材を評価するようなところに、見慣れたものに安心感を求めてしまうような「弱さ」が出ていると思います。
そして僕自身がつくりたい建築はどうなんだろうと、もちろんずっと考えてきた訳ですが。。
僕自身としては、つくる側としては、強さに自覚的に、新しい建築の可能性をみつけて行きたいと思い、そんな建築を良いなと思う反面、一方では大多数の人間というのは(自分を含め)やはり弱さの中で生きており、どこか見慣れたものや記憶への愛着の中で心地よく生きられるのだと思います。
だから、建築が時間とともにより深みを増し、人とともに生き、少しでも長く存在して欲しいと思い、そんな建築をつくりたいと思います。
そしてそのためには、次の世代になっても新しさを感じられる建築でなければならず、そのためには、今の時代に流されない、今当たり前と思われていることを相対化できる視点でつくらなければなりません。
今目の前にあるものを、それが当たり前だとついつい感じてしまうのが人間です。
世界には様々な建築がありますが、それは気候の違いだけによるものではありません。
また数十年前までの日本の建築は今とは随分違ったものとして存在し続けてきていました。
この数十年間に高度成長時代のドタバタの中で形式化してしまったような建築のスタイルを当たり前だと思っていたら、数十年後には大変な後悔をするようになります。必ず。
そうならないための責任が、建築をつくるものにはあるはずです。
ただ悲しいかな、世の中はそうはなっていません。
人はなぜ生きるのか、を問わなくても楽しく生きて行けるように、
人は建築をなぜつくるのか、を問わなくてもいいじゃないかって??
人生はひとそれぞれ、どんな生き方がいいかなんて言えませんが、
本当に良い建築を見て、感じれば、誰にでも良い建築はあります。
誰もが良いと思えるものが存在するのに目指さない手はないですよね。
今年最後に重たくなってしまったけど。
最後に自分が何を目指すべきかを少し整理して、来年に備えようと思いました。
それでは皆さん、良いお年をお迎えください。