人間には12の感覚がある

  • 2026.02.01
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ドーキンスさんの論はちょっと違うと思うことがあるけど弟子筋らしい。でもとても好きな本。
しばらくまえからスピ(リチュアル)系?や、ずいぶん前に買ったままだったシンクロニシティという本を読んでいた。つまり西欧の科学的思考によって目に見えない、理性で理解できないものを「迷信」としてきてしまったことによって、本当は感じることができたものさえも感じられなくなってしまっている。それは確実なこと。そしてAIも同様、迷信的なもの以外は人間よりずーっと早く正確に処理できるのだから、今こそ我ら人類は迷信的な能力を取り戻すべきではないか?なんて半分冗談(半分本気)
だからこんな本も引き寄せたんだろう。「願いは叶う」つまり良いイメージを抱き続けることでなぜかいつの間にかそれが手に入る、なんていうのだって、科学的方法じゃないけど疑えないこと。

ご存知の五感は疑う余地のないものとして習い、日々感じているけれど、実は20~30くらいの感覚があるんじゃないか?とかその五感の領域も横断的で曖昧なところがある、とか、そのうちの12の驚きの感覚について描かれている。
ヘレンケラーってちゃんと読んだりしたことがなかった。視覚と聴覚がもともと失われていたけど「触覚」を頼りに素晴らしく生きられた(雑なまとめ)そう。人間の五感自体、本来もっと感度が高く、たとえば暗視能力もかなり高いけど今の世の中使わなくなってしまっているだけで、実際五感の何かが失われたら何かが結構補うようにできている。そして動物全般に言えることとして、感覚器(眼球とか)の性能とそこからの情報を処理する脳は別のもの。例えれば例えればレンズがすごく良くてもモニターが荒ければ結局モニターの性能でしか見れないし、色も違ってみせられているかもしれない。その意味で人間の巨大な脳は高性能モニターであり、ほかの動物が嗅覚や聴覚がすごくても、人間も脳が大きいからかなり性能は高いらしい。

フクロウは聴覚で餌のネズミのちょっとした動きを見つけるらしい。でも人間の聴覚も結構すごく、目隠ししてみれば耳が左右にある意味の通り、世界が立体的に、音だけじゃない質の世界として感じられる。

個人的にずっと不思議だと思っていたこと。渡り鳥やウナギや、どうして行ったこともない遠くに導かれるように移動できるのか?について。鳥には弱い磁場を感じ、つまり南北や緯度さえ感じられるから自動操縦のように導かれるそう。そして実は人間にも同じ能力があり、オーストラリアの原住民に実験したら同じ能力が見つかったり、現代人も磁場を感じる能力はあるらしい。いわゆる方向感覚という通りか。
蛾など昆虫は長い幼虫時代のあと成虫になり1週間も生きられない中で生殖をしなければならず、役立つのがフェロモン。すごく濃度が低くても導かれるらしい。そして人間も体臭でペアの相手を選り好みするらしく、それは体質的に強い子孫を残すためにその体臭が役に立つ。なんか惹かれる異性、とうのはそういうものか。

チーターがすごく早いのは平衡感覚がすごい高いから。でも人間が二足歩行できたのも平衡感覚による。そして身体能力とつながっているのだから僕らはもっと平衡感覚と身体能力を鍛え続けないと社会に迷惑をかける存在になってしまうのだ、と改めて思う。

最後、タコの身体感覚という章。タコは脳が小さく8本の腕がそれぞれ自立しているかのように動く。例えれば8人の護衛を伴った王様みたいな。方針の指示はしても細かなことはお任せだし関知しない。他方人間は指先のちょっとした動きまで意識できる。だから自分の体を自分の体と認識して動かせる。タコはそんなこと考えなくても勝手に動いてるという意味で動物の中でも対極的のようだ。特殊な症例でその身体感覚を失ってしまった方の話がでていて、幽体離脱のようだと感じたそうだ。ちょうどスピ系を読んでいた時「幽体」ってなんだ?って考えていた。全身に細かく張り巡らされている神経に常に電流が流れその全部ではなくても意識的にそれを感じ、自分の体としての身体感覚を持ち続けることでできたそのネットワークが幽体の正体ではないか?怪しい話でもなく、肉体と不可分のようででもその電気的ネットワークは肉体自身ではないのだから。それは余談としてもその身体感覚というものがあってこそ自分の体を自分の体と感じ動かせる、という事は僕らの存在の一番の前提は身体感覚であり、五感なんかより先立つものであるといえるのだ。

でも曖昧で科学的に記載できないからという理由で「教科書的」でないから教えられないのだろう。
うらを返すと教科書的で教えやすい知識だけを教えることによって、僕らはそれ以外の世界を嘘だと洗脳させられているのだ。
今自分の家で、窓が無駄に大きいしちょっと寒いと感じながらでもいっぱいの緑(枯れ枝も多いが)が風の音とともに揺れ、鳥がさえずるさまを感じながらこれを書いている。そして世界はとても立体的だなと本当に思う。本書のように世界はもっともっと多次元的に立体的なのだ。でもそれが実用的でないからと閉ざしてしまっているのだ。

冒頭に書いたとおり、そんな風に生きるならAIに代替される生でしかないと思う。
教科書的なことはAIに任せられる時代だからこそ、僕ら人間は「非」教科書的な体に眠っている多くの感覚を取り戻し、それを楽しんで生きるべきじゃないかな。
ということで当面こういう内容が増えるかと思います。