京の大工棟梁と七人の職人衆

  • 2022.04.11
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中村外二棟梁ほかの一流の職人たちの何とも身の引き締まる話ですが、今は昔、と言わずに自分の身に引き寄せて感じ、考えてみないといけないですよね〜
厳しい丁稚奉公や技は見て盗め、みたいなよくある話は置いておいて、改めて感じたのは、木材や石などの「素材」を見る目。そしてそれを自ら確保し、それと日々向き合って、どう使おうか想像する力。そのためにも一流の眼を養い、一流の素材と一流の腕で応える。そして客もそれを求める。と書くと当たり前のことなんだけど、今の世の中「一流」と言えば大企業や大学や、、で、職人(設計も同類だと思っている)たちなんて、大変で儲からない肉体労働者の世界で、「一流」とは無関係になってしまっていると思う。だから結果、カッコイイ建物は沢山できても決して「一流」とは呼べないものになってしまっているように思う。
そしてやっぱりそれは「素材」に真剣に向き合えないというか、つまり外二棟梁のように一流の木材をいくつもの倉庫に集めて、日々それを見回って使い方やいつ加工すれば良いか考えたりする、ってことはつまりその素材の「個性」を知って感じなければできないことだけど、今はそんなことはなかなかできなくて、ある素材や等級くらいは指定できてもそれは現場に届いて初めて目にするような状況だから、逆に素材に「個性」なんてあってもらっては困るわけだし、素材を売る方もそういう売り方になるわけだし、結局大工も材木屋も、大して木材のことなんて知る必要がなくなってしまっているように思う(もちろん設計者はさらにだ)。
この5年10年でやっと思うようになれたのは、素材に向き合えなければ本当に良い建築なんてできないってことで、まだまだ大したレベルじゃないけど、杉という素材には自分なりに向き合って設計をしてきた結果として、少しずつだけど満足感を感じつつ、さらに先のレベルも見えるようになってきたようにも思ってます。
やっぱり!と思ったのは、外二棟梁が、「どういう建築、どんな部屋がいいかっていうたら、、この部屋はそんな立派な部屋ではないけれど、何にも障りがのうて、なんか落ち着くなあ、というのがいいじゃないですか。どこがいいのか考えんでいいような部屋、どこがいいのかわからんような部屋が一番いいんですよ」と。立派に見せようとしたらあかん、と。本当にそう思う。だいたい見ていて、そこにいて疲れるし、美術館ならまだしも住宅のような普通の生活を包もうハコに無駄な個性が強ければ、日常の生活とバランスが取れないし、色んな意味で疲れちゃうんじゃないかと思います。ただ外二棟梁がつくったものももちろん「立派」に違いないから表現は難しいけれど、大事なのは「障り」がない、つまり吉田鉄郎の言った「見ていやでない」という、本当にさりげない気持ち良さだと思うのだけど、それを人工物で実現しようと思うと、実は恐ろしく大変なのだ、ということだと思います。

つまり、雑念のない境地。。。まだまだだ。。。