ルイスカーンの建築論

  • 2019.01.29
  • BLOG

卒論のために読んだ本だからもう25年前か。。カーンは古典であり、思うところあり再読しました。

ちょうどFBに書いたのですが、先日亡くなられた梅原猛さんの言葉で「長い疑いの末に直観的に仮説が生まれる。ニーチェからは心の奥深い闇を見つめることを学んだ」というのがあるそうで、カーンの思索もそれであり、また先日書きましたが岡潔さんもそれであり、とこの歳になってやっと色々な大切なことが繋がってきたように思います。(まだまだですが)

あまり難しい話にしてもいけないので、僕なりに思い切り噛み砕いてみますが、カーンも岡さんも本来決して説明や言葉が上手な方ではないけれど、自分が感じたある種の「真理」をなんとか伝えようと言葉にしていますが、特にカーンは英語ですから和訳するときに主な概念(インスティチューションとか)がカタカナのままなので、より堅苦しく読めて心に伝わってきにくいし、実際僕が大学の頃読んだときには、怪しい思想のようにも読めてしまっていた記憶があります。でも今、岡さんの事を知り、本質ではカーンも同じだと感じたので、なんだか体にスーッと入ってくるように思いました。

カーンは、芸術でも建築でも本質は「共同性」つまりある誰かに属するものでは決してない、と言いますが、それは岡さんが「自分を後に、他人を先に」と育てられ、煩悩というものから離れたところに「創造」をされた、ということと同じことのように思います。そして「情緒」という言葉はカーンは「ジョイ」と言ったそうですが、「創造の力」「創造の本質」だと言っています。そしてまずその出発点が分かればそのあとがわかります。

カーンは建築家で形を作る人ですから、当然といえば当然ですが「光」が神のように絶対的な存在です。だって光がなければ視覚には物質は存在し得ないから。でも実は宇宙は光に満ち溢れていても「物質」あって「影」ができなければ「光」も視覚的には存在し得ない。そして光と物質は男と女のように求め合う関係であり、だからこそお互いの理想的な出会い方ができるような「形」が立ち現れることが望まれ、それを建築家が形にするためには「リアライゼーション」「インスピレーション(上記の直感か!)」が必要。まあ噛み砕きすぎですが、そんなことが言いたいんだと思いますが、そのための原動力は「ジョイ」であり繰り返しますが、作家が自分のものとして作ろうとした途端に、それは不可能になる、ということなんだと思います。

カーンは「大変できの悪い学生で、どうにかして卒業できたものでしたから、私は教えられたものを在学中ではなく卒業してから学びました。私は生まれつき内気で、自分自身を主張しようともしなかった」そうですが、それが彼を結果偉大にしたんでしょうね。でも彼が建築家として頭角を現したのは50歳過ぎてから。でも彼がそう望んだのではなく、建築に身を「捧げた」結果そうなっただけ、なのでしょう。

僕もそんな気持ちで建築に向かい合ってゆこうと思います。