ブルーノタウト/日本の家屋と生活

  • 2009.06.23
  • BLOG


この本、1936年に書かれ、1950年に邦訳が出版されたようで、とある方から頂いた本だったのですが、それもびっくり初版本(つまり1950年のもの)でして、多くの漢字が旧字だったりしてなかなか読みにくかったのですが、でもとても興味深く読みました。
タウトさんは、実際しばらく日本に滞在し、日本の文化をとても評価したドイツ人建築家で、何となく今までは、何で外人さんから日本の事を聞かなきゃいけないの?的な捉え方をしてしまっていた所がありましたが、実際読んでみると、とても素直に日本の当時の事に向き合い、観察し、疑問に思える事を思慮していて、逆に日本人では気づかなかったような事に対して目を開かせてくれるような内容でしたので、評価されているのも然りなのかな、と感じました。
まずは僕にとっては、戦前の、平和な、とても日本らしい生活や光景を知る事ができたのはとても楽しい事でした。
昔から日本の家は「夏を旨とする」と言われてきていますが、最近はどこに言ってもエアコンがある前提でしかないので、その本当の意味というか状況が分かり得なくなってしまっていますが、「夏を旨とする」状況の生活がどんなものだったのかが分かります。
また開放的な生活をしていたのは夏に対する過ごし方だった面もあるとは思いますが、「自然に対して開け放った中」でとても自然な生活を営んでいる日本人というのが、とても印象的だったようでした。
また、伊勢神宮から小堀遠州のつくった桂離宮、そして良い民家という日本建築の流れを大変評価していますが、一方で表面だけ取り繕ったり、飾り立てたような「いかもの」建築が増えつつあることにとても危機感を表していましたが、でも、高い教養や高い趣味をもつ日本人はいまだに日本建築の良い部分を受け継いでいる事も発見していますが、やはり建築というのは文化ですから、教養が落ち、低俗になったら「いかもの」でしかないのは当然の事ですし、そんな意味では現代は「いかもの」だらけですねえ〜。
まあ全てを紹介する別けにもいきませんが、あと一つ、桂離宮を見て、とても「モダンだ!」と言うわけですが、その理由として、とても「市民的」というか、様式の厳格さを持っていないからだ、とも書いていて、ちょっと考えさせられました。
最近「モダン」の意味とは一体なんだったのかと考えていた所でしたが、モダニズムが、それまでの価値観や因習から離陸しようとした所から始まった事を考えれば上記の事は自然な表現に思えますが、桂がそんな自由な思想の元で作られたにせよ、同時代にはそうでないものも沢山在る訳で、日本がそんな「モダン」の国だったと言うのはちょっと乱暴かな、とは思いました。
でも、モダンが「自由」と同義だとすれば、茅葺きや杮葺き屋根(とても因習的はなず)の桂が、モダンを感じさせたのだとすれば因習から自由でなくてもモダンであり得るという事になります。
別にモダンでなければいけないと思っている訳じゃないですが、世の中がそうなってしまっている現状の中で、「因習」というのをもっと正当に見直すべきじゃないかと最近思っています。
自由というのは不自由と同時にしか存在しないと僕は思っています(分かりにくい?)
言い換えると、因習を全否定した先には決して自由なんてあり得ないと思います(相変わらず分かりにくい)
このあたりの事をもう少し考えたいと思っています。