ダヴィンチコード
- 2008.03.30
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今さらなのですが。。気になっていて、見てみましたが、とても面白かったです。
最近読んでいた、仏教との対比としてのキリスト教という意味もありましたが。
基本的に、宗教っていうのは、人間の不安定さ、根拠のなさ(当たり前なのですが)に何か心のよりどころを求めるべく生まれてきたのだと思いますが、キリスト教もそうですが、一神教という、人間なのか、神なのか、いつからなんで神という存在になったのか??というところは、良くわからないし、歴史的に描かれている事も、どこまで事実なのかどうかも、とても昔の話なので、良くわからないですよね。
だいたい、「事実」だったかどうか、なんていうものは、その後、誰かが誰かなりの「解釈」をして、それが歴史として語り、書かれ、継がれてきたに過ぎないのに、記述なりが残っていれば、それを「事実」もしくは「真実」として受け止めてしまうのが人間の弱さです。
そして、このダヴィンチコードも、その辺りに切り込んでいて、様々に伝えられる、キリスト、もしくはキリスト教という存在が、いかに「ねつ造」されて来たかを描いています。
「ねつ造」なんて言うと怒られますが、人間の世界は全て「ねつ造」に過ぎないと考えれば不謹慎でもなんでもないと分かります。必要なものなのですから。
そこで思うのは、日本や東洋の「自然崇拝」に対する「一神教」という世界。
どっちもどっちのところもありますが、自然は、私たち人間の前に、既に存在し、既に与えられていたものですが、人をモデルとした神というのは、やはり人間が(必要によって)生み出し、育てたものなんだと思いますし、その違いは歴然だと思います。
不安定な私たち人間にとって、超越した存在としての「神」はやはり必要な存在だったと思いますが、その超越性をどこに求めるか??
やっぱり自然に求めるのが良いのではと思いますし、ダヴィンチコードでも描かれていたように、「教会」という存在が、その存在を守るために、「キリスト」という存在を超越的に守り、現実をねじ曲げて来た、という側面は間違いなくあるんだと思います。
「喧嘩をやめて、二人を止めて、私のために争わないで、もうこれ以上」ってなんのことやら。。ですが、もしキリストさんが生きていたら、今こう思うんじゃないかな。。