センスの哲学・ものの見方
- 2026.05.08
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実は僕らは「ものの見方」って誰にも教わってないんじゃないか?でもそれって重要じゃ?と考えさせられる本。
もし人間が「服」なんて着なければ服のセンスなんて不要だし、髪が生えてなければ髪型のセンスもいらない。
食べるもの飲むものも、選択肢があるから悩めるし、センスなんて言葉が生まれる。でもそれは人間だけなのだ。
危険だ!みたいな言語はほかの動物でも持つようだけど、楽しみのために歌ったりその中でうまい奴がいたり、なんてのも人間だけだ。
それは五感に渡り、自分の好きなものを選ぶこともできる。好きなものを食べて、聞いて、見て、嗅いで、なでなでする。
でもその中で、視覚というのは他の感覚より圧倒的に情報量が多かったり、文化的な蓄積などもあって、料理を「何も考えずにじっくり味わってみて」というようにいかなくなっている。そしてやっぱり建築は視覚的な部分がほとんどなので、僕としては視覚的なセンスとは何か??については日々仕事を通じて考え続けてもいる。
これはピカソの絵だ!と言われるとなんだかすごいと思わざるを得ないけど、何がすごいのか?良いのか?ほとんどの人には言えないと思う。
ブランドやら、有名であることで、なんか良いものだと思ってしまうからコマーシャルがあって、僕らは洗脳社会に放り投げられているのだ。
他方、みんなで美味しいものを食べたり、ライブで良い音楽を共有したりしながらある種の「社交」が行われるけど、芸術を通じてそれはなかなかできない。
美術館の名画をみんなで見たって、みんな黙って見て、隣の友人が何を感じているかさえもわからないまま帰ったりもする。でも食や音楽と同じく、芸術でもそんなことをできるようになる契機として、本書は書かれたようだ。
芸術には「意味」作者の有名度や、いつのどの時代背景に描かれたか?やそんなものが先に「解説」としてついてきてしまう。だからまずその意味を保留して、芸術を音楽のような、ベースとなるリズムと抑揚の構成物だ、という見方を繰り返してみよう、という。料理もベースとなる味と食感やスパイスなどの抑揚の組み合わせ、でもある。そして現代美術として表紙のラウシェンバーグの絵をその方法で解説している。著者もそんな単純な話ではないと分かった上で、入門書として、と前置きしているけど、それで納得できる、というものでもないけど、確かに芸術の世界では意味を剥奪して現代美術に至っているのはそうだろうし、その方法については、なるほどなと思う。
また、そのセンスって生まれ持った才能とかじゃない誰にでも再現性のある、 AIがやっている事と同じようなことだ、と著者はいう。
芸術、音楽、映画なんかは特にそこに崇高な意味が込められていてそれが感じられないから僕には分からないしセンスがないんだ、となるように思うけど、AIはそんな崇高な意味なんて関係なく、大量に情報を集めて統計学的にセンスのよさそうなものを提示してくれる。つまりあるパターンを持っているのだと。
裏を返せば、ある程度までの初歩の見方ではあるけど、その先の深い部分に応用が効くものでは全くないだろう。という批判はできてしまう。
本書でも書かれているけど「モダニズム」もそれまでの時代が背負ってしまっていた「意味」を脱ぎ捨てた先の自由を目指していた、と言えるし、建築の世界で言えば、素材感を消して「白」くして、構成で勝負した、というのは同じ事だったのだろうけど、結局そこの物足りなさもあって、コルビュジェは後期は毛深い建築を作ったし、ポストモダンなんて意味過剰な建築を作る時代の下地も作ってしまった。
そんな意味では日本建築も、日本画などの芸術やそれにつづくアニメの世界でも、その「意味」を背負わずに軽やかに生み出してきたから西欧人たちに衝撃を与えたんだろう。というのはよく言われること。上記の話の流れで言えば、表現としての意味を乗せる、ということを日本人はして来なかったという事?かも。
でも今の情報過多の時代、様々なレベルの意味がこびりついてくるので、センスがないやつがブランド服を買う、みたいなことにもなるんだろうね。