クリストファーアレグザンダーの思考の軌跡

  • 2015.10.31
  • BLOG

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著者の長坂さんは、実は一昨年に研究のため(?お役に立てたやら?)しばらく事務所に来られていて、というご縁と、私もアレグザンダーの著書は何冊かもっていたりと以前から興味があったのですが、ご出版に際し頂きまして、忙しくてなかなか読めませんでしたが最近時間も出来たので楽しく読み終えました。

ただアレグザンダーという人は当時とても話題にはなったけどちょっと分かりにくいし「異端」扱いされてたように思いますし、その後は建築界では忘れられた人に近かったので、何故今さらアレグザンダー?と思う方は多いでしょうね。一方の本流はもちろんモダニズムで、対照的にある種の分かり易さを備えていた訳ですが、本書でも様々に触れられいてその対比をする事でいろんな事が見えて来ますので是非読んで頂ければと思います。ただ、どちらも合理的アプローチという意味では似ていて、でもモダニズムは「機能」と「形」のリンクを求めたけれどその上の「質」をどう得るかについては語っていなかったので、後に質の無い形式的な機能の組合せといった門切り形の学校建築のようなものに至ってしまったわけで、でもアレグザンダーはその質も含めたものとしての建築を、どのように合理的思考で生み出そうかと考え続けたと言えますし、そこに惹かれたからアレグザンダーを信奉したり僕のように興味を持った人間が居たんでしょうね。でも結局は、その質的なものは合理的思考からは生み出せないと悟り、「神」に近づく、と。

むしろその合理的思考が、そんな質からわれわれを遠ざけていて、それを超越したというか「宇宙の偉大なるもの、われわれを超えた美と輝きの極致」のように神みたいなところを目指すようになるようですが、その辺は宗教観の違いなのかもしれないですが、僕らが理解しきれないレベルの原理のようなものを、一神教的には「高み」のように考え、多神教の僕らみたいなのは「深み」と考えるだけで内容は同じなのかもしれないですが、ちょっと僕らには違和感があるようにも思います。ただ「美しい」という言葉は英語だとbeautyと訳せるにしたって結構意味のズレがあると思われますし、従って上記のような「極致」に至っても西洋人と日本人では違うものを生み出すのだと思いますし、という事はつまり「神」ではない、つまり神なら同じものを生み出させるんじゃないかと思ったりもします。

アレグザンダーの考え方は形而上学的というか、あるルールに添うものであれば万人が美しいと思うに決まっている、という感じに思うのですが、僕は生物学的に考えるのが好きして、美しいと思うかどうかは、ある物をその動物の内的欲望次第というか、美しいと思うというという事にも当然生物学的な意味があって、また環境が変われば同じものでも見え方が変わってくるのは当然じゃないかと思うのです。例えば、いくら青い海だって、周りに島も何も見えないところに1人放り出されたら美しいもクソもない、というような。。そして、富士山や星々のように雄大で変わる事がないものや、紅葉の紅葉のように、繊細ではかなく、守らなければならないと思うような物が「美しい」と感じるという事は、生物が種として何万年とか続くために必要な内的欲求なんじゃないかと、僕は思っていますので、やっぱり「神」じゃないんだと思っています。

また、本書を読んで思うのは、大学時代に卒論のために現象学とハイデガーを少しカジりましたが、ハイデガーも「存在と時間」という大書で人間存在というものを追い求め続けましたが、僕の理解では結局挫折して、芸術作品などの中に人間存在を見つけようとしたのですが、アレグザンダーも似ているなと思ったり、その挫折があったからこそハイデガーも次に進めたという意味では必要な過程であったんだろうなと思いつつも、現象学は色眼鏡を外して対象そのものに向き合うという意味でも、決して「神」的ではないのでそこは違うのかもしれません。

最後に、今の建築の世界も、アレグザンダーの努力やルイスカーンのような思索があったにも関わらず、深い意味では何も良くなっていませんが、それは何故かと考えると、やっぱり「教育」の弊害のように思います。教える側の立場になれば分かりますが、曖昧やものや自信のない事って教えにくいですよね?となるとやっぱり教科書的解釈というのが教えるためには必要悪となり、その教科書的解釈というのは、誰からも文句をつけられにくい合理的思考によって生まざるを得ない、という事で質については語れないし、語ろうとすると異端になってしまう、、という状況ではないでしょうか?ルイスカーンはそれをやりましたが、結局アレグザンダー同様、分かりにくかった事もあり、思索の部分は忘れ去られようとしています。でも、そのような先達がどう考え、悩み、どう至ったか?という事に対して、僕ら形をつくる人間はもっと真摯に向き合わないと行けないし、形を生み出す事に古いも新しいもないので、やっぱり振り返ってみるべき「古典」と言っていいと思います。文学だって、挫折した人生を投影したものが古典になっていたりするわけですから、アレグザンダーの挫折?だって古典になり得るのではと思いますが、それ以前にもう古典なんて今の社会には不要みたいになってきているのは悲しいですが、より良い未来のためにはやっぱり古典を踏み台にしなければ危ういばかりですよね。せっかくの先達たちが残してくれたものなんだから。

と、いつもながらにまとまりのない文章ですが、建築をやっている、志す方で、モダニズム以降や現代の(特に流行りのね)建築を見てもなんかピンと来ないような方は是非読んでみて下さい。流行り好きな方にはまあおすすめはしませんw

最後に、アレグザンダーが他のどんな建築を、彼の物差しで言うと評価できるのか、ということを書いてくれていたらもう少し理解がし易かったのかなと思います。でき上がる手法はおいておいて、でき上がった質として、全く他に評価できるものがなかったとは思えないので。。