アンナ・カレーニナ
- 2016.07.27
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僕は小説は沢山読んでいる方ではないですが、以前カラマーゾフ読んで面白かったのと、知人にこれは読むべきだと以前お聞きしていたのもありましたが、文学論は私にはできませんが良い小説というのは登場人物の個性に厚みがありますし、読む事によってそれらの人物に出会い、こちらも考えさせられるのが小説の醍醐味かな、と思います。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」という有名な冒頭から始まり、その文にとてもぐっと掴まれて読み始めましたしとても面白かったけど、その暗示されたものが何だったのか?少し分かりにくい。でも社会的地位の高い夫を捨てて恋に走り、最後は疑念のうちに命を絶つアンナや様々な社会のしがらみの中で自らを殺しながら生きている他の登場人物たちはその「不幸」の様々なタイプであり、アンナの次に多く?描かれたレーヴィンこそが僕は「幸福」としての主人公だったのかな?と読み終えて感じました。
レーヴィンは様々な事、社会的な自分の身の置き方、振る舞い方、結婚など、について社会の大勢を占める価値観にはなびかずに常に悩み続け、結局は自ら地主として農民たちとともに日々精一杯生きつつ、地主としてその農民(や家畜)たちを正しく導く事に幸せを見いだしてゆき、それを支える妻とともに幸せな家庭をつくってゆきますが、彼は元々信仰(キリスト教)には懐疑的だったけど、最後にはある種の「信仰」を感じるところで本書は終わるのですが、それが「どれも似たもの」の意味なのだろうか?
既存の価値観や宗教ではなく、自らの内面と自然や大地や宇宙の間にゆるぎない何かを見つける事、とも言い換えられるかもしれませんし、今の僕も(まだまだですが)そんな事を感じつつそれを幸福だとも思っていますが、それこそが、というかそれのみが「幸福」なのかな、と勝手に理解をしました。
まあしかし、ストーリーや他の登場人物やアンナの美しさの描写など、とても読み飽きない小説でしたし、冒頭に書いた登場人物の個性の厚み、というのは現代の小説(滅多に読みませんが)にはなくて、設定や展開の面白さで売れてしまっているのかな?そんなの読んでも刺激しか残らないんじゃ?と思ったりもしましたが、以前からの持論ですが、古典を生きたものとして感じ、大切な部分があるなら伝えてゆかないといけないと思っています。