まちづくりとデジタル?

  • 2022.03.11
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「全国初」お好きですね〜って感じですが、詳細次第かも知れませんけど、まちづくりとデジタル、馴染まないものだと僕は感じます。
今までもたまに書きましたが、「まちづくり」という言葉は、トップダウン的に街を作ってきた従来のやり方が、いわゆる「ハコモノ」しか生み出せない反省のようなところから、市民の生な関わりによって、生き生きと使われる建物や街を生み出すために、それまでになかったそのやり方を「まちづくり」というひらがなで表現したのだと、僕は理解しています。そしてその言葉の黎明期にそれなりに「まちづくり」に関わらせていただいたことで、実感としてそれを知っているつもりです。
当時「浜松まちづくりセンター」(建築住宅まちづくりセンターという今ある機関とは全く無関係)というのがあり、浜松市はまた全国に先駆けてそれを作り、でも僕の認識では、結局市民の声なんて聞くのは無駄なだけだという判断で、名前を変えながら、本来の役割を奪われてしまったと思っています。というか浜松市のやり方は基本トップダウンがお好きだと思うので上記の意味での「まちづくり」という理念はもともとなかった、というか理解されていなかったように思います。ただ実際まちづくり活動というのは時間と手間がかかる割に簡単に何か成果を生み出してもくれないし、ただ市民を入れて何か意見を出させる場を作ったって、現実的でない文句を言うガス抜きの場に終わることが多いと思うし、それがそうなってしまった一因ではあると思います。。
ですから「まちづくり理念」というのがどんなものが出てくるのか興味津々ですwが、まちづくりというのは「声にならない声」を丁寧に拾い上げることにこそ価値があり、つまり大きな声ばかり通ってしまうのを防止しなければならないのですが、「デジタル」というのはそれを助長してしまうのではないか??だからまちづくりとは馴染まないのではないか、という推測です。
でももしかしてその「声にならない声」を掬い上げるシステムを提示してくれるかも知れない!と僅かに期待をしてみますが、上記の通り、浜松市はそういう体質ではないはずです。
次に、その「まちづくり」がなぜ大切で必要かについて私見ですが、僕は一市民と、行政のトップとは、ある種、人間の手足の先端と脳みそに例えることができると思っています。つまり、脳はある程度手先に指令を出して動きますが、実は無意識に動いていたり、運動選手の最上の演技って、訓練を繰り返すことで体が覚える、というように、脳みそが逐一指示したことを手足がおこなっているわけでないですし、手足のの感覚を脳に伝えなければ何も反応することもできないですよね。そんな風に、市民の生な感覚をしっかり行政に伝えることでしか、体全体としての最上のパフォーマンスを実現することはできないはずだ、ということです。
脳みその都合の良いものしか見ない、感じない、しない、ということでは手先の繊細な感覚はいつか失われ、いつか脳みそだけが残される。だからこそ欧米は「民主制」を産んだのでしょうけれど、現場の議会民主制だけでは「生きた」世界が生み出せていない。だからこそ「まちづくり」だったと思うのですが。。
と、文句ばかり言っていてはダメで、僕ら市民が行うべきことは、自分の目先の世界の、ほんの小さなことからでも良いから、良くできるんだ、と信じて、どう変えたいか常に考え、それを自ら行うか、実現できる人を探す。
そして自分が専門の道ではその「実現できる人」になって信頼させる努力をする。仕事でなくたって、家事でも日々の生活のちょっとしたことでも、自分の得意なことが、誰かに頼られ、少しでも良い全体に近づけるような努力をすること。
そんな市民が少しでも増えれば、ちょっとずつだけど身の回りが生き生きと輝いて、それに応えようと行政や議員や首長も目を輝かせて頑張ってくれる。そんな好循環を生み出すために、「まちづくり」って言葉が生まれたんだと信じています。