また白井晟一
- 2014.04.26
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先日図面張りましたが、また白井晟一ですが、頂いた本など合わせると10冊以上白井晟一の本があって、その中に紹介されていた「木造の詳細」という、白井さん設計の「呉羽の舎」の全図面なのですが表には一切そう書いていない不思議な本。でも白井さんは作品の解説はせず、極力図面を載せていたし、またスケッチは一切捨てていて、竣工図しか出さなかったというから、つまりスケッチというのは「構想」であり普通はその構想がその仕事やディテールまでも方向付けるから重要とされるけれど、白井さんにはそう言う意味での構想は無かったと言えるんだと思います。
白井作品はいくら見ても、また哲学的な言葉をいくら聞いても、どうも根っこの部分が分からないなあと諦め半分でしたが、1985年の建築文化で原広司さんがインタビューしている中での白井さんの言葉の中に、そうか!というのがありました。
「人間の本質。開発前の宇宙大系のようなもの。が矛盾しながら呼吸しているのを統一して表現にもってゆけるのが人間の値打で、機械とちがうところなんだ。エレクトロニクスでできぬことはそういう矛盾の統一、いな生きている矛盾を内包せぬ事だと言える.社会はそのまた複合体なのだから、矛盾のない原理的なものが心棒になって動かしているんじゃない。僕も60になってやっとそんなことがわかりかけてきたんだ。建築という仕事もね。」
と、すっかり先日の禅的な話とつながってくるわけです。
原理なんてなくて、矛盾を統一して表現をする努力をするけど、それが出来たとしても決して原理は生まれないので、新たな矛盾たちとまた新たに向かい合って統一を図ってゆくしかないと。
だから、洋風、和風、モダンなどというのはそのあり得ない原理でしかないから従うわけにゆかない。
と何となく勝手に合点がいったつもりなのですが、いやいやその程度のことが頭で分かった所でそれを実践するという事がいかにまた困難な事か。。20年後、60過ぎて白井さんのように言えるように、(インタビューしていた原さんも記していますが)「この偉大な師に遠く及ばぬとは知りながら、精進を心がけるほかない。」です。
仏教的に言うと、「縁起」なんでしょうか。お寺の釣り鐘と、それを撞く鐘木。それが出会い(撞かれて)音が出て、初めて鐘も鐘木もそこにある、というか。「様式」というのはある種、その出会いの前に、これこれの組合せで、こういうものになる、というレシピのようなものだけど、建築はそんなレシピによってつくられるべきではない、という事だろう。
うーん。ちょっと分かったつもりで目先の仕事に取組んでみよう。