そう言えば、卒論は。。

  • 2014.04.03
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その理由はまた書きますが、今、少し自分の設計の方針を見つめ直しておりまして、ガサガサやってましたら卒論などが出て来まして、少し読み返したら、20年以上経ってますが自分の原点はさほど変わってないし、読み返してみることで、今後の方針を考える助けにもなるかと思いましたのでお恥ずかしい面はありますが^^;

ノルベルグ=シュルツはノルウェイ生まれの建築史、建築論学者で、ハイデガーの思想等に影響されながら空間論や場所論、意味論などを展開していたのですが、正直それをやろうと思ったのではなく、悩んでいた所担当教授に読んでみろと渡されたのがきっかけで、その頃のゼミの自分の資料も残っていたので読んでみたら、結局、その頃のポストモダンなどの建築の意味や価値が理解できず、素朴に「美しさ」とはどうしたら実現できるのか?動物の巣や原始的な建築物と何が違うのか?構造を素直に生かして美しければ余計な事しなくてもいいんじゃないのか?みたいな事が書いてあって、それで教授も薦めたのかもしれないし、結果僕のベースの一部をつくっているので、まあ感謝しないといけないなあと思います。

まあ深く書き出すときりがないので、序で引用していた、
「過去においては、人間生活は<もの>と<場所>とに密接に関わっていた。苦難と社会的不正義にも関わらず、ひとは<帰属性>と<同定性>の感覚を持っていた。世界は質と意味の世界として体験された」「幼少時代から我々は測る事と分類する事を学ぶ。通常<科学的>として知られている抽象的な種類の理解が支配してきた。。。このようにして想像力は殺され、理性が統治する。」
というような思考は多分元々感じていて、その後もずっと感じ続けてきてまた最近特にそういう思考が強くなってきているように思います。

自然をあるがままに感じ、詩や芸術などへの感受性を失わず、つまりは「今」「ここに」生きているというような「実存的」なありかたを目指さなければならないのですが、近代(建築)が結果として招いたのは、時間と場所の概念を消し去り、今はいつなのか?ここはどこなのか?分からない、つまり自分は誰なのか?が分からない世界だと言えますし、物質的な豊かさと引き換えに精神的な豊かさを失ってしまったのだと思います。

シュルツは建築家としてはルイス・カーンを一番取り上げていますし、建築をつくる上での思想としては我々ももっともっと勉強すべき対象なんだと思うのですが、何しろ難解なので敬遠されているのでしょう。でも、難解でない分かり易い事になぞ、何も深みはないと改めて思い知り、分かり易い言葉こそ注意深く敬遠しなければいけないのだと思います。
かといって、大きな予算をかける建築の設計において、経済性や機能性においては分かり易い説明は欠かせないとは思いますが、それを乗り越えて、その難解な豊かさに一歩ずつでも近づきたいとは思いつつ、やっぱり簡単じゃないので、たまにこうやって自分の思考をたどってみたりする事も大切ですね。