これからの日本に都市計画は必要ですか
- 2014.07.10
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大学時代の畏友?の名前もあったのも読んだ理由だけどお世辞抜きに良い本です。「都市計画」って教条的なとっつきにくい、という印象で遠ざけてきてしまったけれど、本書では、蓑原さんがさすが、日本における都市計画についてとても分かり易く語り、その他のメンバーは僕と同世代、つまり蓑原さんより40程下の世代が素朴?にこれからの日本を良くするためにどうすべきかを語り合った内容です。
当たり前の話ですが、「都市計画」とは個々人ではなく面として全体をより良くするために、ある時代においてある理想像を描きそれを実現するための手段を整えるという事だと思いますし、近代以降、都市や人口が増大してゆき、何しろ量を確保しなければいけない時代には一定の役割を果たしたのは間違いないと言えますし、例えば衛生的である、というような理想像が必要だったでしょうしそれで良かったのでしょうけれど、今はもうそんな段階ではないですし、数も寧ろ減らさないといけないし衛生的とかの次の段階の質の問題を扱ってゆかないといけない時代にも関わらず、最初につくられた「手段」がそのまま残ってしまっているのでそんな質を向上させるような力を今の都市計画がもち得ていない、というところでしょうか。そしてその手段は画一的で、高飛車なのでそれぞれ特色のある地域や人々の暮らしをすくいあげつつ質の向上を目指す、という事ができない。だから「まちづくり」なんて言葉が生まれたけれど本当はそれが都市計画に対してボトムアップで力を持てるようになるべきなんだろうけど、どうも都市計画側にそれを受入れるつもりがないというか。
都市計画というと堅苦しいかもしれないけれど、たまに書きますが、「まちづくり」とは何か?について以前ある方から学んだ事は「身近な事を少しでも良くしようとすること」から全ては始まるという事で、それは自分の家をつくるとか、全ての事に共通するけれど、まずは個々人が自分の身の回りをどうしたいかをきちんと考えること。そしてそれを周りのみんなと話し合って共有すること。それが大きくなれば町内や市町村や国レベルで何をすべきかが必然的に見えて来るし、それを理想像として手段をその都度考えればそれでよいのだと、僕は(そんな単純じゃないと叱られそうだが)思う。
だけど現状は、上から計画を押し付けるから、個々人がそういうことを考える感性を失ってしまっていて、更に日本人は欧米人たちより、「それはおかしい!」と主張もできない人種なので悪い状況が放置されてしまっているのではないかと思う。
でも、そんな風に個々人が感性を取り戻し、考え始めるには、例えば、AとBの選択肢があってそれぞれは初期にどれだけ費用がかかり、見た目や使い勝手はこうこうで、10年も使っているとこうなりますよ、というような具体的な説明なりがあって初めて、じゃあAだよね。みたいな判断が出来るわけで、僕は当然普段の設計から施主にそうやって示しているつもりだけど、都市レベルにおいてそんなものは行政から決して示されない。だから、畏友は計画でなく「シュミレーション」に徹するべきじゃないか?と投げかけています。(いやそんなじゃない!と言われるかな〜w)
あと、コンパクトシティとすべきなのか?という問いもありましたが、それもそれぞれの状況の中で、都市なんて建築物より長く残っちゃうんだから、先の世代の声も聞くつもりで、じゃあどうすべきか?と考えたら必然的に答えは見えて来るはずで、単に中心市街地に集まれば良いという技術論ではない事は明らかなんだと思います。
話は飛びますが先日の市の広報で、市長が、「浜松周辺地域は12市町村が合併を行い、消滅可能性都市が消えてしまったので問題は起こりえない」「時代を先取りした賢明な選択であった」と言ってましたが、合併したってそれぞれの地域の実情がそれほど変わるわけでもなくただ小さな問題を大きく抱え込んで分かりにくくしただけなんじゃないか、なんて気楽なんだ。と唖然としました。市長にさえ理想像が描けていないんですから、重傷ですが、まあ大きな事を言っても仕方ないので自分も含め、個々人が、身近な事から興味をもって、どうしたいか、それを実現するにはどうすれば良いか?を考える習慣をつけるところから始めることからだ、と思っています。