いのちとかたち-日本美の源を探る-山本健吉
- 2024.12.10
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まだまだ知らないこと、読まなければいけない本が沢山あるなあと思う。すごい本だ。
43年ほど前の本で著者はよく知らなかったけど文芸評論家。小林秀雄と同時期に似たような仕事をされたようだけど、論の立て方が違うといえば違う。
「日本人の芸術観の底には日本人の自然観が横たわり、さらにその底辺には自然界全てを霊の栖と考え、生きた存在と考えるアニミズムの思想がある。その世界認識が日本の芸術にどのような特徴を与えているか」についてのエッセイ。
絵画や文学、茶、花、能など伝統芸術にそれぞれ深く触れ、それらもとても興味深かったけれど、それら有形無形のもの含め「かたち」なのだろう。そしてそこの底辺にあるのが「いのち」であると。
端的に分かりやすいのが、僕も何度か書いたりしてきた芭蕉につて、好んで使った「造化」「造物」という言葉に注目し、「西行、宗祇、雪舟、利休という敬慕する風雅の先達から貫道する一なるものとして」「風雅におけるもの、造化に従いて四時を友とす」を引く。
造化というのは今や聞きなれない言葉だけど、建築の人間なら磯崎新が取り上げたデミウルゴス=造物主を思い出すだろうが、それは西洋の神であり、世界創造の神のように神が完璧に世界を作りたもう、というニュアンスがある。一方で「造化」とは「自然は芸術を生み出す種ではあるが、それは不変の姿ではなく、変化の相において、またそのただ中において、芸術家の捉えるところとなる」「自然の変化のただ中に、一瞬のうちに捉えるというその機微に、作者の苦心がある」そして、「『いのち』の融通無碍に嬉戯する相を捉えよう」とすることである。
それは常に変化し続ける自然や「いのち」であり、八百万の神も本当は一つのものだが「表現形態が多様な」だけだといい、やはり西洋の神とは全く違うものだ。
西洋の芸術は自然を支配し「作り出す」スタンスだけど日本人は自然そのものに「作り出す」及びがたい力を持つのでどこかから先は自然に委ね、「造化に随ひ」なのである。
短歌についてもかなり触れているけれどそれは「日本の即興詩」であり、歌会では作った歌という形に意味があるのではなくそこで詠み合う、ということにこそ意味があり、同じく茶会も「一期一会」というように、その瞬間が大切なのである。という意味でその場の変化を捉えること、が芸術といえる。
「もののあはれ」同様に重要な古語として「色好み」を挙げ、光源氏に触れた部分はなかなか面白い。源氏は3人の女性を愛したことは現代感覚から言えば認められるものではないが、天皇に近い?ような存在として「最も優れた女性を選択することの義」(迢空=折口伸夫の説だが本書はかなり彼の説に負っている)から考えれば、国生み神話の中でのまぐわいが、国を生んだことのような意味を持つ、と。
よく思うことだけど、昔の文学にしても、遺跡などにしても、今の僕らの価値観で判断するというのはとても良くないことで、当時の人々には世界や自然というのは全く違った見え方をしていた、というところから始め、その見え方にいかに近づいて読むか、という努力をすべきなのだと思う。
能について書かれた部分も面白く、西洋的な劇というのはステージというフレームが演者と観客を明確に仕切っているのだけど、能というのは「シテ」のみが演者であり「ワキ」以下は観客側でしかなく、能舞台には西洋劇のような明確な仕切りがない。そして世阿弥が編み出したシテの中に生と死の人間の二重性を持たせる、つまり西洋劇では強く保たれるべき演者のアイデンティティが最初から割れてしまっている、という形式にこそ能の特性があると。
それぞれ深くて難しい話なので、中途半端な僕のまとめより、ご興味あれば是非ご一読を。
もう一つ興味深かったところ。日本画になぜ影が描かれないのか?
ところで写真を撮影といい、昔は写真は魂を吸い取ると恐れる人もいたとか。死んだ人の写真は「遺影」とも。。
「一言に言えば『影』とは『たましひ』を意味した」「すべての現象に『たましひ』あるいは精霊を感じ取っている日本人のアニミズム思想から考えれば、人間の肖像画だけでなく、あらゆるものに影をつける必要はないはず」だと。
と、自分が興味ありそうだから読んだのだから当然だけどそれを超えていろんなものを得られた。小林秀雄やその時代の人たちはそうだけど、「向き合う」事が今の僕らと段違いなように思う。それは情報や価値観に溢れる世界になってしまった、というのもあるだろうけれど、本書でいう「いのち」というものに対する感受性が削がれてしまってきたから興味も持てなくなってしまったからだと思う。
こんなこと知らなくても特殊な専門の立場でもない限り困らないし知っていても金にはならない。
でも一千年、二千年かけて身につけてきた日本人の感性というのは体に染み付いて簡単には消えないと思うし、短歌なんて形式が庶民にも千年以上続いてきた理由は日本人の「こころ」には少なくとも必要だったからだと思うし、その必要性は消えてはいないと思う。
自然や四季の移ろい、そして人やものと過ごすその瞬間を捉えること。その精神性に自らの「いのち」というのを感じてきたのだと思う。
いつものオチだけど、だからそんな建築や住宅をつくりたいし、こんなことを考え、感じ続けたいと思うのだ。